第9章 M-Vの衛星たち

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小田稔とともに

悪夢から2週間あまりが経った2月27日、世界のX線天文学の草分けにしてリーダーである小田稔の家にX線天文学の若手グループが集結した。ASTRO-Eの打上げ失敗の愚痴をこぼすためである。

打上げ後のある会議で、井上一が、松尾所長から「X線グループはまさか(ASTRO-Eの)代替機を考えていないということはないでしょうな」という複雑で含意のある聞かれ方をした時に、「一応考えてはいますが・・・」と言った後、「ロケットはアメリカのやつかな・・・」と小さくつぶやいた。

その小さなつぶやきは、大きな意味を持っていた。忘れもしない1976年2月4日、日本初のX線天文衛星「CORSA」を搭載したM-3Cロケット3号機が、発射のショックで2段目と3段目の姿勢制御データが入れ替わるという未曾有の事故で、あえなく太平洋上空に消えた。その直後の動きは早く、その日のうちにロケット・グループからは「一日も早く次のX線天文衛星を打ち上げましょうね」との声がかかったし、メーカーの側からも異常に安い見積もりが出されるなどして、宇宙研はまさに一致団結して耐えぬき、闘いぬき、1979年に「はくちょう」衛星を同じM-3Cロケットの4号機によって、完璧な飛行で軌道へ送り込み、日本のX線天文学は一挙に世界への階段を昇ったのだった。

あれから24年も経ったのである。日本の宇宙科学をめぐる情勢も変わった。日本はほぼ毎年のように世界的な活躍をするバラエティに富んだ科学衛星を打ち上げている。その分野は、X線天文学だけでなく、オーロラの成因などを探る宇宙プラズマ物理学の衛星や太陽フレア観測衛星、世界初のスペースVLBI観測を遂行する電波天文衛星、火星探査機等、きらびやかなものである。

それぞれの分野を担当するご本人たちにとって見れば、自分の分野の衛星が大事だろうし、ロケット・サイドから客観的・長期的に見て、どれが重要ということはないのかも知れない。しかし確かにX線天文学は、これらの一連の科学衛星の中にあって、打ち上がれば常に成熟した働きをし、世界のX線天文学をぐいぐい前へ推し進める獅子奮迅の活躍をしたことは、火を見るよりも明らかなことである。「はくちょう」「てんま」「ぎんが」「あすか」と来て、何と言ってもASTRO-Eは5番目のX線天文衛星になるはずのものだったのである。

失敗にもかかわらず宇宙研では意気軒高に見えたX線の若手は、小田稔のそばでは、正直な気持ちが出たのだろう。すっかり意気消沈していた。10年近くも精進して一つの衛星を育て上げ、何もすることなくそれを失った人たちの、やり場のない苦しい胸のうちが見えた。ASTRO-Eが失敗した時点で、新しいミッションを始めるという選択肢もあった。しかし、たとえ打上げが3年や5年遅れたとしても、この衛星は世界で一番だという確信を彼らは持っていた。

「アメリカのロケットなんかやめようよ。M-Vでやらなきゃ意味がないよ。精一杯応援するからさ。よそのロケットなんかに頼るなよ。」その場にいたロケット・グループの的川泰宣が思わず強い調子で言った。ところがこの発言は意外な反応を受けた。X線の若手の顔が喜びに輝いたのである。「宇宙研のロケット・グループの人たちがどう考えているのか、今まで分からなかった」と言うのである。それが井上の「アメリカのロケット」発言につながったらしい。X線グループは、宇宙研のロケットを見限ったわけではなかったのである。そばにいた小田も我が意を得たりとばかりに大きくうなずいた。

的川は、その後で宇宙研のロケットの若手たちが部屋に来て、「この雪辱戦をM-Vでやりたい」と頬を紅潮させて力説する姿を何度も目にした。

──そりゃあ情勢は厳しいよ。2002年からはM-Vの打上げは目白押しになっているし、ASTRO-Eとそっくり同じものを作るだけでも最低2年はかかるだろうから。大切なのは、一緒にやろうという気持ちを失ってはいけないということだよ。──

行政改革の途上で起きた打上げ失敗は、いろいろな問題を惹起するだろう。でもこの困難を強い団結のための糧にしなければ、日本の宇宙科学の発展をかちとることはできない。日本の宇宙活動の歩みが、これからどのような道をたどろうとも、未来への大きな夢を共有する人間と人間の心の結びつきがなければ。

次のX線天文衛星がどのように準備され、どのように打ち上げられるか。その運命は日本の宇宙科学の行く手を占う大切な物語になることとなった。

そして、2005年初頭の打上げをめざして、ASTRO-Eの生まれ変わりであるASTRO-EII計画がスタートし第1回の設計会議を行ったのは、2000年6月7日だった。

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