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さよなら18mアンテナ

建設当初の18mアンテナ

建設当初の内之浦18mφアンテナ

18mアンテナ

内之浦18mφアンテナ

「はるか」の運用が佳境に入った1997年の夏、30年余りにわたって内之浦の鹿児島宇宙空間観測所のテレメータ台地に聳え立っていた18mφのパラボラアンテナが撤去された。老朽化で内部の腐食が進み危険とあって、付近は近年立入り禁止になっていた。だから、いずれは撤去の運命にあった訳であるが、いよいよとなると感慨を禁じ得ない。

このアンテナの計画は、1962年(昭和37年)、内之浦実験場の建設開始と一緒にスタートした。予想されるロケットの飛翔距離の増大に備え、テレメータの受信能力を向上させることが目的である。一方、当時は米国でテルスターやリレー衛星が打ち上げられた能動中継衛星通信の揺籃期で、日本は、郵政省電波研究所が宇宙通信実験用の30mφのアンテナを建設中であったが、本格的な高性能アンテナの計画は、同時期に始まった国際電電の20mφのアンテナとこの内之浦のものが最初であった。

これらのアンテナの開発には、生産技術研究所第五部のメンバーが多大の貢献を果たした。アンテナの架台のコンクリート構造は、丸安隆和の設計である。一方、アンテナの反射鏡は、晴海の見本市会場のドームを設計した坪井善勝が担当した。「自分は回転対称体の応力場の解析手法を開発し、晴海ドームを作った。次は非対称体を手掛けて見たいと思っていたが、アンテナの反射鏡は恰好の材料だ」と進んでその役を買ってでたのである。坪井はその後、東京オリンピック会場建物群の屋根構造の設計にも携わった。それらの応力場解析手法は後に学士院賞を受賞するが、彼は回顧録のなかで、端緒となったアンテナ設計を主要な業績の一つに挙げている。

アンテナの製造は三菱電機が担当した。同社は、喜連川隆というアンテナの電気設計の大家を擁し、電々公社のマイクロ波中継用の4m級アンテナの開発などで優れた実績を挙げていて、同社が適任であることは衆目の一致するところだった。構造設計を担当したのは、後に常務取締役になった故森川洋の率いるチームである。森川は第二工学部機械の出身で、厳しい坪井が感心するほど、良く坪井の付託に応えた。この時の坪井との共同作業はよほど強く双方に印象を与えたようで、森川たちの「坪井先生を囲む会」がその後も長く続いたとのことである。

アンテナの反射鏡は自動追尾の必要から、できるだけ軽いことが要求される。そこでこの反射鏡はサンドウィッチ構造を採用、表面と背面のパネルをコア部材に溶接して、一体として強度メンバーを構成するという構造になっている。そのために設計作業が複雑になり、森川たちは随分と苦労したようであるが、これで直径18mの反射鏡は、重量12tという画期的に軽いものになった。

1964年(昭和39年)の完成時には、背面にもう一枚、パラボラがついているように見えた。これは風圧トルクを中和するためのものである。翌年、内之浦を襲った台風によって吹き飛んでしまい、以来、修復されていない。もともと反射鏡本体にダメージを与えないように多少弱めにしてあったのだが、仕様では70m/秒の風に耐えることとなっていたので、後に会計法上の物議をかもした。

今日の宇宙通信の隆盛は眼を見張るものがあり、日本は世界の宇宙通信地上局建設の半分以上を請け負っているが、それも優れたアンテナ技術に負うところ大である。別れを告げた18mφアンテナの建設は、その先駆をなしたものである。

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