第9章 M-Vの衛星たち

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ほのぼの風景から

いつの打上げでも、M管制室をはじめとする内之浦の各センターでは、ハードな作業の合間に、ほのぼのとした情景が現出する。M-Vロケット1号機のオペレーションの中から、そのいくつかを拾ってみよう。

【内之浦の2大名物】
廣瀬橋を渡り、実験場の方へ200m程行ったところのY字路を右へ下りて行くと「小田」と呼ばれる集落に至る。その中程、小田公民館の裏手を流れる小田川のほとりに「小田の楠」と名付けられた大木があり、内之浦町指定文化財となっている。

一方、五運橋を渡り、実験場の方へ下りて行くとミュー台地に至る。その中心、ミュー組立室の本部へ入ると、「小野田淳次郎」と呼ばれる大人が座っている。この人はM-V-1号機の組立オペレーション及びフライト・オペレーションを通じ、延べ約60日という長い内之浦滞在期間中、一日も欠かさず昼食に海苔巻を食べ続けるという偉業を成し遂げた。
その結果、「小野田の海苔巻」には「小田の楠」と並ぶ内之浦の2大名物としての栄誉が与えられた。これを言祝ぎ、松尾弘毅の詠んだ唄
──昼や昼 小野田の海苔巻繰り返し
は、その昔、静御前が義経への告別に舞った際の唄「静や静、静のおだまき繰り返し」と対を成す名作となった。──(上杉邦憲)

【本部訛り】
本部における会話、特に実験主任、保安主任を中心とした技術の話、雑談などを気をつけて聞いてみるとおもしろいことに気がついた。そのときの実験主任の出身地のお国訛りが本部の標準語になるようだ。
M-3SII-8/EXPRESSの時には国際共同研究だけあって、英語、ドイツ語、ロシア語、日本語が飛び交っていたが、まあこれは特別として、今回のM-V-1号機組立オペレーション、フライトオペレーション時は岡山弁が本部における標準語となった。それもそのはず、M-V計画主任で、1号機のフライトの実験主任である小野田淳次郎先生は岡山県出身、その本部へ長老格の雛田元紀先生が現われて、それに集中電源班の瀬尾基治技官が話に加われば立派な岡山県人会。近郷の広島県出身の的川泰宣先生も、その後輩の峯杉賢治先生も会話になじんでいる。
これから世代が交代して、もっともっと若い世代が実験主任をやるようになっても、お国訛りのある会話、会議などが行われるならば、堅苦しい中にも、ほのぼのとしたものが感じられるだろう。──(東 照久)

小野田の海苔巻き

小野田の海苔巻き

ヤマセミ

ヤマセミ

宇宙開発事業団小笠原追跡所(東京都小笠原村)

宇宙開発事業団小笠原追跡所(東京都小笠原村)

宇宙開発事業団勝浦追跡センター(千葉県勝浦市)

宇宙開発事業団勝浦追跡センター(千葉県勝浦市)

【ヤマセミ物語】
小田川と広瀬川は郵便局脇の内之浦橋を合流点として出会い、わずか70m同伴しただけで内之浦湾に流れ込む。釣師だとすぐわかるのだが、河口周辺のこういう汽水域は、ルアー釣りに最適の漁場なんである。
1996年12月の組立オペレーションの休日、朝まずめの釣行がボウズに終わり内之浦橋までもどってくると、橋の上流で何かがドボンと飛び込んだ。おや?と目をやると、小魚をくわえた鳩ぐらいの大きさの鳥が川面を突き破って飛び出してきた。80円切手の絵柄、ヤマセミである。
10年程前、「赤だしこそ味噌汁だ」と主張してやまないX線天文学の村上敏夫先生が、宿の普通の味噌汁を旨そうにすすりながら「河口あたりには、カワセミどころかヤマセミまでいるんですぜ」とつぶやいたのを覚えているが、実際に目にしたのは初めてのことだった。
このあたりは、探鳥家にとってのまさしく聖域でもあったのだ。渓流の麗人カワセミに比べるとヤマセミは山賊風の出で立ちである。とはいえ、水中に飛び込んで餌をとる姿は実に勇ましく、また野生そのものの健気さにあふれている。
ニワカ釣師はすぐに即興探鳥家に変身、毎朝毎朝いそいそと河口に通い、長期滞在のつれづれをなぐさめ、ストレス解消にしっかり努めたのである。酒ばっかり飲んでたんじゃつまんないもんね。
で、心配だったのがM-V-1打上げ時の騒音。双眼鏡を向けただけで移動してしまうほど神経質な野生には、あの凄まじい轟音はライフル以上の凶器になるのじゃなかろうか。 祝酒が少々頭の隅に残る2月13日の早朝、本物探鳥家周東三和子さんと内之浦橋にたどり着くと、おーっ、いたいた。われらのヤマセミは元気一杯ダイビングし、巧みに小魚を捕え、朝飯の真っ最中だった! ニワカ釣師は、今、せっせと双眼鏡を磨いている。──(前山勝則)

【小笠原追跡所】
M-V-1号機の追跡支援をする小笠原に行く方法は1週間に1便のフェリーしかなく、移動日をいつにするかを決めるのもフェリーの運航日次第ということになる。結局、準備期間が短く、データ整理及び撤収期間が長くとれる2月7日東京発、2月20日東京着と言う日程となった。10時竹芝桟橋を出航。小笠原の父島まで約1,000kmでおよそ28時間半ということだったが、途中一時海が荒れて、結局31時間後の翌日17時に着いた。
父島には、民宿・旅館が約30軒、飲食店が約25軒もある。娯楽といえば、平日は飲み屋に行くかテレビを見るかしかない。休日には磯釣り、島巡り遊覧船、ホエールウオッチング、レンタバイクを借りての島巡りなどいろいろあるが、2月のこのシーズンは観光客があまりいないので寂しい感じだった。気温は亜熱帯気候というのか、夏は27℃、冬は12℃ぐらいと、1年を通してそれほど気温の変化が無く大変住み易いところのようである。現に私は真冬の服装を準備していったのだが、現地の人は薄着で、中にはTシャツの人がいるぐらいだった。
さて、本来の目的であるM-Vの追跡業務の話も少しはしておかないと……。NASDA小笠原追跡所は、父島中腹部の見晴らしの良い位置にあり、常駐している人は宇宙技術開発と東京美化という会社の社員数名で、NASDAの人は追跡業務があるときなどに出張するという体制のようである。準備期間が2日間しかなかったので各種受信装置、記録装置、KSCとの通信回線及び連絡体制などの調整、ついでに下水処理設備の改修工事など、NASDA関係者には慌ただしく、しかも手際よく行って頂いた。打上げが1日延期になったお陰で少し余裕ができて助かった。
打上げ時の状況だが、直通電話回線が1本準備されていたが、こちらには音声や映像のモニターが無いためかなり不安だった。しかし、電話を通して時々刻々「飛行順調」の声に胸をときめかせた。私からも小笠原の受信状況を時々刻々連絡をしなけばならないのだが、こちらからは「飛行順調」ならぬ「受信順調(?)」であった。各種データも順調に記録され、とにもかくにも打上げ成功の連絡を聞き小笠原局実験班一同拍手喝采だった。帰りの船までには、その後1週間もあった。──(徳永好志)

【勝浦追跡センター】
MUSES-Bの打上げ時の追跡が宇宙開発事業団勝浦追跡管制所の支援を得て行われた。
前日に打合わせを済ませ、打上げの日を迎えた。万全を期すために2基のアンテナを駆動。メインが周回衛星用のF-1アンテナ(±4度の捕捉アンテナ装備)、バックアップとして静止衛星用のF-2アンテナ(捕捉アンテナなし)である。意気込んで体制を整えて待った。「本日は風が強いので打上げ中止」との連絡が入り拍子抜け。
翌日、衛星の発振周波数の連絡が入ってくる頃になると、いよいよ緊迫。打上げ時刻Xの5分前に、内之浦から再び電話連絡が入り、電話をかけっぱなしの状態にしてもらった。勝浦局の受信状況を刻々と知らせるためである。長い長い待ち時間に感じたが、X+110秒にロケットを捕捉した。X+197秒にAGCレベル変動の幅 が大きく不規則に振動(ノーズフェアリング展開)を開始し、X+217秒にこの振動がなくなったことから第2段分離を確認。その後はレベルの変動は安定し、再びX+330秒にレベルが短周期の振動を始め、第4段のスピン開始を知った。第4段の点火はその直後と思われるが、大きな振動波形の中に埋もれて、読みとれなかった。X+480秒頃になるとその振動幅が急に小さくなり、第4段の分離を確認した。衛星の一人旅の開始。
X+595秒頃に勝浦局は消感。データを検討し、レンジレイトの時間微分を勝浦局の所長が計算したところ、X+343秒頃に加速度が増すところがあり、その時に第4段の点火が開始したことを知った。以上の追跡経過は予測データと良く合っていたことから、打上げは完璧であった。──(藁品正敏)

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