バス機器として世界初のダイレクトインプット・アウトプット型のSバンドトランスポンダ(STRX)を搭載したSLIMが2023年9月7日に打ち上げられ、月着陸に向けた運用を開始しました。この搭載通信機はSLIMが国内外の地上局と交信し、月着陸までのコマンドやテレメトリの送受信、測距といった運用に不可欠な機能を提供するものです。タダの黒い箱にしか見えない通信機のドコが凄いのかというと、コンポーネント開発にあたった三菱電機株式会社の最先端のソフトウェア無線技術を導入し、無線通信に使用する高周波信号を直接、アナログ・デジタル変換器で入出力することができるのです。この方式を採用することで、無線に使用する高周波信号から周波数を変換して変調されたコマンドデータを復調したり、またテレメトリデータを変調して高周波信号に周波数変換したりする信号処理の全てを超高速デジタル数値演算処理で行っています。主要なアナログ高周波回路はコマンド受信のための低雑音増幅器やテレメトリ送信のための電力増幅器だけになり、専有面積が広く複雑なアナログ回路構成になっていた周波数変換系回路を削減できたので、大幅な小型軽量化が実現できました。通信機の核となる数値演算によるデジタル信号処理を担っているのがFPGA(書き換え可能集積回路)という部品です。書き換えによるファームウェアの再構成によって、細かな機能の追加修正だけでなく、将来のミッションに柔軟に対応できます。

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世界初のダイレクトインプット・アウトプット型のSバンドトランスポ ンダ(STRX)

ソフトウェア無線技術は、近年、携帯電話基地局や放送機器、アマチュア無線機、軍用通信システム等に採用され、地上でも多く利用される最先端の無線通信技術です。一般的に20年以上前の家庭用電子機器はビンテージの扱いになりますが、宇宙探査においては、技術の新しさよりも実績が極めて重視され、一度開発したコンポーネントは20年以上にわたって使用されます。近年では半導体の微細化技術の進展により宇宙用に認定を受けた古いプロセスの製造ラインが維持出来ない状況が発生しており、部品の開発サイクルも早まっています。JAXAのミッションは開発サイクルも長くミッション数も諸外国と比較しても少ないため、将来にわたって利用される部品をあらかじめ用意しておくことができません。このような少量生産の状況下では部品の枯渇とともに、新規のミッションにおいて、新しい通信機を開発しなければならない事態となってしまいます。ところがソフトウェア無線技術を導入することで、開発した設計資産の多くを次のミッションで流用することができるようになり、サステナブルでスマートな技術開発が可能となりました。

ところでSLIMミッションにおいて新規開発の通信機を、日本初の月着陸に使用することに不安は無いのかとご心配されるかもしれませんが、宇宙研では、これまでの超小型探査機の通信系開発を通じて、宇宙探査の搭載通信機に不可欠な性能評価方法を軌道決定系と密接に連携をとりながら確立し、宇宙実証してきた実績があります。ミッション期間中に宇宙空間において想定される通信環境を模擬し、通信機に経験させることができます。一連の適合性試験と地上試験において、この模擬試験を実施し、通信に起因する不具合を見つけ出し、地上にある間に修正することができるので、新規開発の通信機でも極めて完成度の高いロバストな通信系をミッションに提供できるのです。この不具合の改善サイクルを、短期間かつ効率的にできるのが、国産コンポーネント開発の強みになっています。世界初の宇宙実証と、同時に技術課題に一石を投じたSLIMの搭載通信機の活躍に乞うご期待下さい。

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宇宙研でのSTRXの試験風景

【 ISASニュース 2023年11月号(No.512) 掲載】