はじめに

日本初の本格的な月探査機「かぐや」の打上げから今年の9月で10年になります。「かぐや」は主衛星である「かぐや」本体と子衛星である「おきな」「おうな」※1の3機構成の非常に大規模な月探査機であり、2007年9月14日に種子島宇宙センターから打ち上げられ、同年10月4日に月周回軌道へ投入されました。その後、「おきな」を10月9日に、「おうな」を10月12日に順次切り離した後、10月19日に高度約100 kmの予定軌道に投入され、搭載された13の観測装置を駆使して月のリモートセンシング観測を行いました。「おきな」は2009年2月12日に月裏側へ落下しました。同年6月11日には「かぐや」主衛星が制御落下しました。6月29日の「おうな」の停波により全ての運用を停止しました※2。運用停止から8年、「かぐや」によって得られた膨大なデータの解析は今も終わることなく続いています。「かぐや」データは理学研究のみならず、SLIMをはじめとした将来月探査の立案や着陸地点検討のための基礎情報として重要な役割を果たしています。また地球観測衛星や「はやぶさ2」などの月惑星探査機に搭載された光学センサーのキャリブレーションにも役立てられようとしています。表紙の画像は地球観測衛星に搭載された光学センサー(ASTER)により撮像された月画像と「かぐや」によって得られた月の分光反射特性データをもとにシミュレートされた模擬画像です。月の反射率は長期にわたって安定しており、観測データと模擬画像を比較することで、センサーの感度や感度変化をモニターすることが可能です。

本稿では、これまで「宇宙科学最前線」で取り上げられなかった「かぐや」の測月観測データを用いた月の地殻構造・衝突盆地に関する研究の成果の一部を紹介するとともに、データ利用者の拡大を目指して開発したWebGISシステムを紹介します。

測月観測データを用いた月の地殻構造・衝突盆地に関する研究

夜空を見上げれば誰でも見ることのできる月、その表面には天体の衝突によって作られた無数のクレータ(円形の凹地)があります。双眼鏡を使って月面を眺めると、これらのクレータはサイズによって様々な形態を持つことがわかりますが、直径が300 kmを超える特に大きなクレータは「衝突盆地」とよばれています。

クレータがサイズ増加に伴ってどのように衝突盆地の特徴を備えていくか、また衝突盆地が、どこにどれくらい存在し、どのような形態をしているかは、月の地殻構造や地質構造進化史を紐解く上で重要です。そのためには、月全球にわたって正確な地形データと重力場データが必要となりますが、「かぐや」以前の探査では得られていませんでした。例えば、衝突盆地の地下では、地殻下に存在する地殻と比較して高密度なマントルが浅部まで上昇している(マントルプラグ)ことが知られています。マントルプラグの粘弾性緩和の程度は月の熱史を推定する上で主要な拘束条件を与えます。岩石も地質学的な時間をかければ流動しますが、流動の程度は温度に強く依存しています。これは水飴が室温では固いが湯煎して温めるとサラサラになるのと同様だとイメージしてもらえばよいでしょう。従って衝突盆地が形成された後、粘弾性緩和により、マントルプラグの形状はアイソスタシーの成立した状態(荷重と浮力が釣り合った状態)に変化しようとしますが、温度が低く十分な流動性を持てなければアイソスタシー状態に到達しない、逆に温度が高い状態が保たれるとアイソスタシー状態まで緩和することになり、マントルプラグ形状から衝突盆地形成後の温度環境の推定が可能となるのです。

「かぐや」では、世界で初めてレーザ高度計を用いて全球くまなく地形計測を行い(LALTミッション)、月の正確な地形データを取得しました。また、「かぐや」主衛星と「おきな」の連携により月裏側の重力場を初めて直接計測し(RSAT/VRADミッション※3)、裏側の重力場の正確なデータを得ることに成功しました。「かぐや」LALT/RSAT/VRADミッションにより全球の地形・重力場データが得られたことで、2009年に筆者らは「かぐや」の地形・重力場モデルを用いて裏側を含めて球面調和関数で70次(波長約155 km)までの地殻・マントル境界(モホ面)の形状を推定し月全球の地殻厚分布を得ました(図1)。ここで得られた月地殻厚分布は、「かぐや」に搭載されたスペクトラルプロファイラ(SP)によって見つかった「カンラン石」や「低カルシウム輝石」「純粋斜長石」等の起源の解釈において、主要な役割を果たしました※4。「かぐや」以前のデータでは、裏側の衝突盆地の地下にマントルプラグが存在するかの確証は得られていませんでしたが、月裏側の衝突盆地についても表側の衝突盆地同様にマントルプラグを伴うことが明らかとなりました。また、マントルプラグの形状は表側に存在するImbriumやSerenitasisといった巨大衝突盆地の円錐台型と明瞭に異なり、すべて釣鐘型であることが明らかとなりました。さらに、月裏側の衝突盆地においては、各衝突盆地において盆地形成前の地殻厚と盆地形成衝突のサイズ比がマントルプラグサイズを支配していた可能性を示しました。これは衝突盆地形成時には月裏側はマントルプラグが大規模には緩和しないほどに冷えていたことを示唆する結果でもあります。

「かぐや」データを用いて推定した月地殻厚分布

図1 「かぐや」データを用いて推定した月地殻厚分布
図の右側が地球から見える表面である。衝突盆地内部では、モホ面が浅部に上昇していることに伴い、地殻が薄くなっていることがわかる。

しかしながら、月裏側にあるMoscoviense盆地は、他の衝突盆地とは異なる特徴(衝突盆地サイズと比して大きすぎるマントルプラグ)を備えていることも明らかとなりました。その後、地形データを詳細に見直した結果、Moscoviense盆地は中心のずれた、より直径の大きな盆地状の構造の中に存在する(図2)ことがわかり、2011年に筆者らは2つの衝突盆地が重なっている二重盆地ではないかという説を提唱しました。この二重衝突盆地仮説は、「かぐや」の後に打ち上げられた、月重力場測定に特化した米国の探査機GRAILによって得られたより高精細な月重力場データによって検証され、一般に認知されるに至っています。

図2 Moscoviense盆地(左)とFreundlich-Sharonov盆地(右)の地形とモホ面形状

図2 Moscoviense盆地(左)とFreundlich-Sharonov盆地(右)の地形とモホ面形状
Moscoviense盆地は直径420km程度とされているが、直径600km程度のFreundlich-Sharonov盆地と同等かより大きなマントルプラグを有し、地形的にも640km程度の盆地状構造の中に存在している。

KADIASの開発

「かぐや」によって得られた膨大な月探査データは、「かぐやデータアーカイブ」において、世界中の科学者にPDSフォーマットで公開されています。PDSフォーマットは、NASAやESAなどの月惑星探査機のデータアーカイブフォーマットとして事実上の世界標準となっていますが、日本の惑星探査の歴史は浅く、PDS形式のデータを自在に利用できる研究者は多くありません。従って、実際にプロジェクトに関わった研究者以外が「かぐや」データを利用するにはハードルが高いというのも事実です。また、プロジェクトに関わった研究者であっても、自分の関わった観測機器以外のデータを取り扱うことは必ずしも簡単ではありません。そこで月惑星探査データ解析グループでは、探査データの解析に必ずしも習熟していない研究者や大学院生、学部生をターゲットとして、「かぐや」データの初期解析をWebブラウザ上で行えるWeb GISシステムであるKADIAS(KAguya Data Integrated Analysis System:かぐやデータ統合解析データ作製・配信システム、http://kadias.selene.darts.isas.jaxa.jp)を開発しました。

KADIASを使うことで、利用者はPDS形式を意識することなく各種の「かぐや」データにアクセスし、初期解析を行い、地理情報が付与されたGeoTiffやバイナリラスタ形式、PNG画像、CSVファイルといった一般的なファイル形式でダウンロードすることが可能です。また、「かぐや」データをもとに各研究者が自ら解析し作成する必要のあった、TiO2濃度やFeO濃度分布等のより高次のデータも登録されています。さらに、本システムでは、複数種の「かぐや」データの重ね合わせ表示やデータ間での簡単な四則演算や、演算結果の画像合成が可能です。従って、これまで必要なデータをすべて手元に用意して行う必要があった"TiO2濃度が〜wt%以上かつTh濃度が◯◯〜××ppmの領域"といったデータ選択や、マルチバンドイメージャ(MI)の各バンド(波長)の画像を用いた比演算・さらに比演算結果を用いた画像合成といった初期データ解析を誰でもWebブラウザ上で簡単に実行することができます(図3)。また、地形カメラ画像などのタイル分割されたデータについても、これまで複数タイルにまたがる領域のデータが必要な際には、ユーザが必要となるタイルデータをダウンロードした後に、モザイク・切り出し、さらに必要に応じてリサンプリングといった手順を経る必要がありましたが、KADIASでは処理済みのデータをダウンロードできるなど、ユーザの負荷を下げる配慮がなされています。

図3 KADIASを用いて合成したマルチバンドイメージャの比演算画像

図3 KADIASを用いて合成したマルチバンドイメージャの比演算画像
色の割り当ては、R:750nm/415nm; G:750nm/1000nm; B:415nm/750nmである。

「かぐや」のデータをいろいろ見たいという方はもちろんのこと、これまで探査データに触れたことがなく、利用を諦めていた方にもぜひKADIASを利用していただき、「かぐや」データの解析のドアを開けていただきたいと思います。また、KADIASではユーザが好きな場所の月の地形データを切り出し、STL形式の3Dデータを出力する機能を実装中です。これを3Dプリンターで出力していただければ、まさに月データに手で触れることが可能です(3Dデータは地形を反転させて出力させることも可能なので、3Dプリンターで型を作成し、月面地形石膏模型や月面地形チョコも作れます)。ぜひ自分の目と手でデータに触れていただければ幸いです。

※1 打上げ前、SELENE(セレーネ:SELenological and ENgineering Explorer)と呼ばれていた探査機に与えられたニックネーム。竹取物語にちなんで名付けられた。「かぐや」の"子"衛星が竹取翁・嫗夫婦では立場が逆...というのは気にしてはいけない。

※2 「かぐや」、「おきな」と違い、「おうな」は月面への落下により運用を終えたわけではない。当時筆者は国立天文台RISEプロジェクト所属で「かぐや」の重力場測定・軌道決定・地形計測等に関わっていたが、「おきな」「おうな」の軌道寿命解析・落下予測を行った際、「おうな」が圧倒的に長寿であることに『衛星でも女性の方が長寿なのは変わらないのか...』と衝撃を受けた。「おうな」は今も一人静かに月を周回しているはずである。

※3 ISASニュース2005年11月号
※4 ISASニュース2010年9月号

【 ISASニュース 2017年3月号(No.432) 掲載】