朝の光がアラブ首長国連邦(UAE)パビリオンの白い壁を透かし、柔らかく拡散していた。その光はどこか遠い砂漠の朝を思わせ、会場の隅にたまった透明な空気を少しずつ温めていく。ほんの少しだけ冷たさを孕んだ風が、床を撫でるように流れ、足元に小さな影をつくった。
2025年9月12日、金曜日。この日は、ただの一日ではなかった。
大阪・関西万博のUAEパビリオンで、月と火星、そして深宇宙をめぐる議論が交わされる日。イタリア・ナショナル・デーのオペラが会場を満たし、パビリオンの展示が未来の宇宙科学・探査を照らす日。それらがひとつの時間の中で溶け合い、まるで長い旅の途中で立ち寄る駅のように、いくつもの会話と出来事がそこに集まっていた。

宇宙経済セッション:月・深宇宙への展望
UAE館のホールには関係者が揃い、タイトルは 「UAE - JAPAN 月・深宇宙経済 ― 次なる展開」。司会が静かに開会を告げ、壇上にあるのは UAESAのアドナン・アル・ライス氏(モハメッド・ビン・ラーシド宇宙センター(MBRSC) 副局長(Assistant Director General))、藤本正樹所長(ISAS)、五十嵐巌氏(三菱重工業株式会社宇宙事業部長)。

開始前には、籠に盛られた甘いデーツと香り高いガフワ(アラビックコーヒー)が振る舞われた。手に取ると指先にほんの少し粘りが残り、口の中にやさしい甘さが広がる。砂漠の国の時間が、ここ大阪にも流れ込んできたような気がした。

壇上の真ん中に座るのはライス氏。落ち着いた声で語り出した。
「国際的な宇宙探査は、単一国家ではなく、すべての国が参加する形で進んでいます。大きな宇宙プログラムを持つ国も、新興の宇宙国家も、皆が貢献できます。国際的な協力は、次世代の科学者やエンジニアを育てる機会を提供します。」
その言葉が、天井をゆっくりと反射して、会場の空気を満たした。司会者が次の問いを投げる。
「月面や深宇宙の野心が、国家的イノベーションや経済の多様化戦略にどのように結びついていますか?」
ライス氏は頷き、続ける。
「月面探査はイノベーションを促進し、知識主導型経済への移行を支援します。AIや先進素材など、宇宙以外の分野にも波及効果があります。国際パートナーシップは、衛星や火星・月面ミッションなど、すべてのプログラムで不可欠です。」
前列に座る聴衆がメモを取り、隣の席の来場者が微笑んだ。その笑みは、遠い未来に向かう船の出航サインのように見えた。

藤本所長が語る。声は落ち着いて、しかし力強い。
「日本は人口減少に直面していますが、宇宙産業は高品質な雇用を創出し、若者の関心を引く可能性があります。深宇宙探査では、高度な自律性の向上が重要で、これは楽しい仕事でもあります。若い世代にとって、やりがいのあるキャリアを提供できると思います。」
会場の前列で、若い観衆が小さく頷いた。会場の空気が少し柔らかくなった。「楽しい仕事」という言葉が、意外に新鮮に響いたのだろう。隣の列の聴衆がうなずきながら笑顔を見せている。
その言葉は、パビリオンの高い天井に反響してから、ゆっくりと観客席に落ちてきた。未来の光景が、一瞬だけ目の前に現れる。月面基地の照明、火星の地平線、そして次世代の若者たちが作業服を着て働いている。

続いて五十嵐部長が、企業の視点から話を重ねる。
「UAEと日本の関係は長年にわたり強固で、2000年代から多くの製品やプロジェクトで協力してきました。月面探査には、複雑なシステムの構築や政府の指導が必要です。市場は未成熟ですが、成長の可能性があります。」
司会者が次の問いを投げる。「持続可能な宇宙経済を確保するために必要な枠組みは?」
五十嵐部長は、少し間を置いてから答えた。
「イノベーションと責任のバランスが重要です。国際ガバナンス、環境保護プロトコル、AIや自律システムの倫理、標準化が必要です。」
藤本所長も続ける。
「持続可能性のためには、ベンチャー企業が参入しやすい環境が必要です。テスト施設の提供や初期コストの低減が重要で、地方経済の活性化にもつながります。」
会場の後方で誰かが小さく拍手をした。言葉の中に具体的な温度を帯びて響いてきた。

最後の質問は「今後10〜20年で、月面や深宇宙経済における最も変革的な機会は何ですか?」
ライス氏は少し微笑んで言った。
「太陽光発電、月面居住、商業観光、資源利用。これらは長期的な投資が必要ですが、持続可能なビジネスモデルを作れるでしょう。」
藤本所長が重ねる。
「小型で頻繁なミッションが重要です。コストを下げ、参加者を増やすことで、深宇宙探査が活性化します。」

会場の空気が、少しだけ高揚した。深宇宙に向けた小さな橋が、ひとつ確かに架けられた瞬間だった。
セッション後の出会いと固い握手
セッション後に、藤本所長は、アル・クバイシ長官と固い握手を交わした。ふたりの笑顔が、さっきまでの真剣な議論の余韻をほぐしていく。

左:アル・クバイシ長官 (HE Salem Butti Al Qubaisi, Director General)、右:藤本所長。
背景の展示がまるで砂漠の記憶を映しているかのようだった。
それから、藤本所長は筑波宇宙センターでもお会いしたアル・ファラスィ大臣・UAESA総督とも面会した。そしてSLIMミッションで月面に降り立ったSORA-Qのフラッグシップモデルを手渡した。大臣は両手でそれを受け取り、しばらく見つめたあと、にっこりと笑った。

左:アル・ファラスィ スポーツ大臣兼UAESA総督 (HE Ahmed Belhoul Al Falasi, Ministerof Sports, Chairman of UAESA)
右:SORA-Qモデルを手渡す藤本所長。
背景の竹の柱が、砂漠の風景のように静かに立っている。この短いひとときに、日UAEのパートナーシップの温度が確かに上がったように感じられた。
会場の外で出会ったひとりの学生
セッションが終わり、外の空気を吸い込みにホールの外に出ると、若い男性が立っていた。胸のストラップには「UAE Pavilion Youth Ambassador」と書かれたバッジが揺れている。東海大学で宇宙について学んでいる大学生だという。

藤本所長は思わず尋ねた。「どうして宇宙を勉強しようと思ったの?」
彼は少し上を見上げて言った。「小さいころから星を見るのが好きで......。でも、宇宙の話を聞くと、自分の将来も広がる気がするんです。」
その言葉がどこか胸に残った。遠くから子供たちの歓声が聞こえ、パビリオンの柱の影がゆっくり伸びていく。未来の探査機や基地の話を聞いたあとで、こういう若い声に触れると、「ああ、今日の議論はちゃんと次の世代に届いている」と思えた。
別れ際に握手を交わすと、彼の手は少し緊張で汗ばんでいたが、力強かった。それはたぶん、未来の宇宙に触れようとする人の手の感触だったと思う。
万博コラボイベント「宇宙のデータでひらく未来社会」
その後、万博会場内のFuture Life Village FLEステージに足を運ぶと、JAXA第一宇宙技術部門による特別イベントが行われていた。タイトルは「知り、理解し、予測し、行動する-宇宙のデータでひらく未来社会」。
ステージでは、探査機や地球観測衛星が取得した最新データが大画面に映し出され、観客はタブレットやスマートフォンを手に、リアルタイムでデータを見比べていた。子どもたちや大学生が歓声を上げていた。

観客の感想は率直だった。
「海の温度が上がっているのが見て分かった」 「昔住んでいた場所の森林が変わっている!」
知識として知っていたことが、実際のデータで目の前に可視化されることで、参加者の表情に驚きと、そして少しだけ未来への責任感が浮かんでいるように見えた。

左:レベッカ・リロイ氏(NASAアジア代表) 中央:藤本所長
また、NASAアジア代表のレベッカ・リロイ氏も参加し、タブレットを操作しながら説明を受けていた。国際的な宇宙協力の現場を象徴するひとコマであり、藤本所長も横で静かに見守っていた。
万博会場の西側で
JAXAのイベントは万博会場の西側で行われた。海からの風が頬をかすかに冷やし、遠くには神戸ポートアイランドが見えた。それは不思議と心を落ち着ける眺めだった。
会場の片隅で、公式マスコットのミャクミャクと写真を撮った。一瞬だけ、ここが国際交流の場であることを忘れ、ただ一人の来場者として万博を楽しんでいるような気持ちになった。

海を背景に並んだミャクミャクと藤本所長。西日の光がやわらかかった。
アメリカ・パビリオン訪問:日米の対話を歩く
午後には、藤本所長、瀧口理事、NASAのレベッカ・リロイ氏を中心にアメリカ・パビリオンを訪問した。
最初に、2025年大阪・関西万博アメリカ・パビリオン大使 ウイリアム・E・グレイソン氏を表敬した。
グレイソン大使から、アメリカ館でも投影されているドジャースの大谷翔平選手の活躍、長年に亘る日米間の宇宙分野での協力などについてご発言があり、藤本所長、瀧口理事からもこれまでの協力について感謝をお伝えした。また、藤本所長と瀧口理事がグレイソン大使と固い握手を交わした。

左から、2025年大阪・関西万博アメリカ・パビリオン大使 ウイリアム・E・グレイソン氏、藤本所長、瀧口理事
展示ホールには月の石、ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡、ロケットシステムなど、アメリカの誇る多くの宇宙科学・探査関連の展示物が並んでいた。

また、館内の奥には、巨大なスクリーンに小惑星BENNUの表面が映し出されている。その岩肌は荒々しく、どこか懐かしい匂いがした。BENNUのサンプルは2024年8月にISASに到着し、分析が進められている。

はやぶさ2とOSIRIS-REx、二つの探査機が別々の旅を経て、地球にサンプルを届けたという事実が、胸の奥で響いた。国際協力という言葉が、ただの概念ではなく、目の前の具体的な物体としてそこに存在していると感じられた。

展示解説員と一緒にアメリカ・パビリオン前での記念撮影
藤本所長(右)、瀧口理事(右から2人目)、レベッカ・リロイ代表(左)がパビリオン前で笑顔を見せる
イタリア・ナショナル・デー:シャインハットで響くアリア
夕方、万博会場の中央にあるイベント会場「シャインハット」で、イタリア・ナショナル・デーのイベントが始まった。観客は自然と息をひそめる。
テノール歌手が一歩前に出て、最初の音を放った。
声は天井を突き抜けるように響き、会場全体を包み込んだ。音が空気を揺らし、肌に触れるたびに鳥肌が立った。

「宇宙もまた、無限のアリアじゃないか」
たしかに、月や火星、深宇宙への挑戦も、この歌のように一つひとつの音が重なって、ひとつの長い旋律を形づくっていくのかもしれない。
アンコールの歌声が終わると、スタンディング・オベーションの観客の拍手が波のように広がり、クリアハットの天井で反響した。その響きは少しだけ名残惜しく、もう一度最初から聴きたくなるような余韻を残した。
イタリア・パビリオン訪問:技術と芸術の交錯
イベントの後、藤本所長はイタリア・パビリオンが主催する文化交流のレセプションのため、パビリオンの内部を見学した。
展示室に入ると、照明に浮かび上がるカラヴァッジョの《キリストの埋葬》が目に飛び込んできた。肌の白さと背景の暗さのコントラストが強烈で、しばらく言葉が出なかった。宇宙の闇と光の境界を見ているような気がして、深宇宙探査の話と重なった。
また、イタリア館の奥では、レオナルド・ダ・ヴィンチの《コデックス・アトランティクス》が静かに展示されていた。細かな文字と図面が並ぶページを覗き込むと、500年前の天才が宇宙と自然の謎を解こうとしていた息遣いが伝わってくるようだった。それは、現代の深宇宙探査計画ともどこか地続きに思えた。
![]()
帰途と余白:夜の闇をひらく思索
一日の終わり、訪問者の背後には、まだ明るく、世界最大の木造建築物である「大屋根リング」が輝き、夜風が通路を撫でるたび、小さなホログラム展示の壁面表示がちらちらと紫と藍の光を放つ。会場の外にも、賑やかな万博会場の光と各国・地域の国旗の波紋が揺れていた。

"宇宙科学・探査への挑戦は、国や言語を越えて、人々を糸で結びつける営みなのだろう。"
この日、語られた夢と技術が、若い世代に「脈々」と受け継がれ、いつか月や火星、深宇宙で再会する日の伏線になるようにと、願いながら。大阪・関西万博という舞台で、宇宙への小さな橋が確かに架けられた。そんな印象を残して、帰途についた。

写真は夜の光に照らされる「ミャクミャク」。遠くに大屋根リングが。どこか未来の象徴のように見えた。
番外編:筑波宇宙センターで
万博イベントの3日前、UAE訪問団は筑波宇宙センターに足を運んでいた。藤本所長は、ISASのミッションを概観した。藤本所長は落ち着いた声でISASの活動を紹介し、また、津田雄一ISAS副所長がスペースドームの中、実物大のはやぶさ2模型の前に立ち、探査機の旅と地球帰還の瞬間を語った。その声はドームの天井にゆっくり響き、聞く者の胸に落ちていった。
こういう瞬間に思う。
宇宙はどこか遠い場所にあるけれど、そこへ向かうための言葉や物語は、案外この地面の上で編まれている、と。スペースドームを出ると、風がすっと通り抜けた。少し湿った空気の中に、次のミッションの匂いがしたような気がした。
この訪問が、数日後の万博での対話への良い前奏曲となった。

右:アル・ファラスィ スポーツ大臣兼UAESA総督 左:山川理事長
津田副所長が屈みながら、はやぶさ2について説明。
(2025/10/06)
