日本時間の2024年1月19日23時59分58秒、宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所(ISAS)の小型月着陸実証機SLIM(スリム)は、2基のメインエンジンの噴射を開始した。

それまでSLIMは月を回る軌道を巡っていた。この噴射で月面に対する相対速度を落とす。するとSLIMは月の重力に引かれて月面への降下を開始する。そのままならば、どんどん落下速度が上がって、月面に激突だ。そこで、適宜メインエンジンを噴射して、速度を落とし、最後はそっと月面に降り立つ。

この日、SLIMを管制する管制室のある宇宙科学研究所・相模原キャンパスの天気は概ね晴れ、最高気温は14℃を超える暖かさだった。月齢は半月からやや満月側に近づいた7.6。噴射が始まった時点で、日本から見る月は、西の地平への沈みつつあるところだった。SLIMからの電波受信は、全世界3箇所に位置し、地球自転と共に使用するアンテナを切り替えて24時間連続の通信を可能にする、米航空宇宙局(NASA)のディープスペースネットワーク(DSN)の支援を受けて行われている。

噴射が始まった瞬間、相模原の管制室に詰めているSLIMプロジェクトマネージャ、坂井真一郎教授ができることはなにもなくなった。坂井教授だけではなかった、SLIMに企画段階から関わってきたプロジェクトサイエンティストの澤井秀次郎教授も、ファンクションマネージャの福田盛介教授も、できることはなくなった。彼ら計画の先頭に立つ科学者3人だけではなく、SLIMプロジェクトにたずさわってきた科学者も技術者も作業者も、それどころか地球上に居住する70億人の全人類が、原理的になにもできることはなくなった。

月面との距離測定、いったい月面のどこの上空にいるのかの自機位置の決定、降下速度を落とすためのメインエンジン噴射のタイミング、そして ── これこそがSLIMという実証機を開発した最大の理由なのだが ── 月面の狙った場所ぴたりと安全に着地するための動作、これらすべては、SLIM自身が自律的に実行する。

ラジオコントロールの模型飛行機のように、地球上からSLIMの状態を監視して、コマンドを送信して操縦する、ということはできない。

メインエンジン噴射で周回速度を落としたSLIMは、刻一刻と月面に近づいていく。一方、地球と月との間の距離は約38万km、宇宙で最も高速である電波でも往復するには2秒以上かかる。なにかあっても、地球から操縦していたら、手遅れになってSLIMは墜落してしまうだろう。

月の重力は地球の1/6。表面の重力加速度は、1.62m/s²。仮に高度100mに噴射で浮いている状態からトラブルが発生して表面に落下したら、何秒後にどれほどの速度で月面と衝突するか ── 空気のない月面での物体の運動は、高校の初歩の物理で簡単に計算できる。11.1秒後に、秒速18mで月面に衝突だ。秒速18mは時速65km。幹線国道を走る自動車とほぼ同じ速度だから、間違いなくSLIMは無事では済まない。

だから、すべてはSLIMに搭載したコンピューターとその上で動くソフトウエアが決定しなくてはけない。不測の事態が起きても、SLIM自身が対処し、可能な限り安全に着陸しなくてはならない。

しかもやり直しはできない。月面に安全に着陸するにはかなりの量の推進剤を必要とする。月面近くまで降りてくるまでには、相当量の推進剤を消費してしまっている。だからそこでトラブルが発生しても、もう一度月周回軌道には戻れない、戻って、待機し、稼いだ時間で地球上の科学者・技術者がトラブルを解決するという手は使えない。トラブルは、その時、その場で、SLIM自身がなんとかするしかないのだ。

解決できなければ、SLIMは月面に墜落する......

機体の開発にあたってSLIMにはありったけの知恵を詰め込んだ。なにがあってもSLIMが自力で問題を解決できるように、可能な限りの仕組みを仕込んだ。

それでも、坂井教授以下、管制室に詰める全員が知っていた。

── トラブルが起きる時は、事前に予想もしていなかった場所で、予想もしていなかった形で起きるものだ。

管制室の面々は、SLIMから届く、SLIMの状態を示すテレメトリ・データを見つめていた。SLIMが地球に送信する電波に乗っている、SLIMが今どんな状態にあるかの一連のデータである。

そう、正確には。彼らには彼ら以外の70億の地球人類とは違い、まだできることがひとつあった。モニターに表示されるテレメトリ・データを、固唾をのんで見守ることであった。

― 月への長い道 ―

月は地球唯一の衛星だ。地球に一番近い「他の星」である。地球からおおよそ38万kmのところを、27日7時間の周期で公転している。直径は約3474km。表面の重力は地球の約1/6。表面の面積はおおよそ3800万平方km。これはユーラシア大陸(5476万平方km)よりは小さく、アフリカ大陸(3037万平方km)よりは大きい。表面は、暗い海と呼ばれる部分と、明るい山脈と呼ばれる部分とに大きく分かれ、しかも隕石が衝突した跡であるクレーターというあばたのようなへこみが無数に存在する。地球のような濃密な大気は存在しない。ほぼ真空だ。

月の最大の特徴は、常に地球に向けて同じ面を向けているということである。これは月自身が1回転する自転周期と、月が地球を一周する公転周期とが一致しているということを意味する。

地球に一番近いにもかかわらず、地球と全く違う、まるで似たところがない星、それが月だ。

そんな月を、人間は長い間あこがれ、ながめ、想像するだけだった。日本でもまた然り。現存する日本最古の物語文学である「竹取物語」は9世紀から10世紀にかけて成立したとされる。竹より生まれた赤子が美しい姫となり、数多の貴族が求婚するも、すべて姫の出した課題を完遂することができず、姫は月の都へと帰っていく。

月に帰る? どうやって? 月から貴人が雲に乗って迎えにやってくるのである。

自分も月に行きたい。でもどうやって? 物語ならともかく、人は雲に乗ることはできない。

人間が月にいくためには、物理学という学問が必要だった。同時に、学問が科学技術の進歩を促し、具体的に月に行くことができるだけの技術を駆使できるようになる必要があった。

それらの条件がそろったのは20世紀の半ばを過ぎてからのことだ。

1957年10月に人類初の人工衛星「スプートニク1号」の打ち上げに成功した、旧ソ連は翌1958年から月の表面に向けて人工物体の打ち上げを開始した。

最初の3回の打ち上げに失敗。4回目となる1959年1月2日の打ち上げは成功したが、月の横を通り過ぎてしまった。この探査機に旧ソ連は「ルナ1号」という名前を与えた。同年9月12日に打ち上げられた「ルナ2号」は9月13日に、月面表側の「晴れの海」と「雨の海」の中間、アルキメデス・クレーター付近に衝突。人類が月面に送り込んだ最初の人工物体となった。

1959年9月13日から、人類の月面探査が始まった。

1959年の時点では、月について天体望遠鏡で観察できることしか分かっていなかった。例えば、月の表面にちゃんと人工物体は着陸できるのかすら分かっていなかった。月は全面ずぶずぶの砂の地獄で、降りた物体はすべて砂の中に飲み込まれて沈んでしまうのではないかというような推測が、大真面目に議論されていたのである。

一例として── 1958年に、アーサー・バートラム・チャンドラーというオーストラリアのSF作家が「限界角度(Critical Angle)」という短編を発表している。月に宇宙飛行士を乗せた人類初の月着陸船が降り立った。ところが降りた途端、月のクレーターも山脈も一斉に崩れ落ち、月は一面のっぺりとした平らな星になってしまう。実は月の地形は細かい砂がぎりぎりまで積み上がって形成されたもので、宇宙船着陸の衝撃で、その全部が一斉に崩れ落ちてしまったのだった。

今では、馬鹿らしくも思えるワンアイデア・ストーリーだが、当時はそれなりにリアリティが感じられる内容だったのである。

1960年代を通じて、旧ソ連とアメリカは競い合って月の探査を進めた。第二次世界大戦後、東側諸国を束ねた旧ソ連と、西側諸国の先頭に立ったアメリカは、政治面でも経済面でも軍事面でも鋭く対立した。冷戦の時代である。東西両陣営にとって、科学技術面での優越を示すことができる月探査は、刃を交えることのない戦争の戦場であった。

幸いなことに、月の表面はチャンドラーの奇想よりははるかに丈夫だった。1966年2月3日、旧ソ連の月着陸機「ルナ9号」が、史上初の月面軟着陸を成功させた。ルナ9号が、月面の砂に沈み込むこともなかったし、着陸で月の地形が大きく変化してしまうこともなかった。ルナ9号の着陸機は、月面のパノラマ画像を地球に送信してきた。それは人類が初めて見る「別の星の風景」であった。

同年6月2日、アメリカの月着陸機「サーベイヤー1号」が、月面の嵐の大洋への着陸に成功した。サーベイヤー1号は、月面で1ヶ月半に渡って活動し、1万1237枚もの写真を送信してきた。その後1968年までにサーベイヤー探査機は合計7機が打ち上げられ、うち5機が月面着陸に成功した。

そして、あの人類史的大事業。アメリカのアポロ計画が、宇宙飛行士を月面上に送り込むことに成功する。1969年7月20日、ニール・アームストロング、バズ・オルドリン両宇宙飛行士が搭乗した「アポロ11号」の月着陸船は、月面静かの海への着陸に成功し、アームストロング・オルドリン両名は、月面に到達した最初の人類となった。アポロ計画はその後1972年までに全7回の月着陸ミッションを実施し、失敗したアポロ13号を除く6回で、月面に各2名の宇宙飛行士を送り込んだ。

一方旧ソ連は、秘密裏に有人月着陸計画を進めるも、大型ロケット「N-I」の開発に失敗して頓挫。その一方で、無人探査を着実に進めた。1970年9月の「ルナ16号」では、無人探査機による月の岩石試料の持ち帰りに成功。1971年の「ルナ17号」と1973年の「ルナ21号」では、世界初の無人月面探査車「ルノホート」を月面に送り込むことに成功した。ソ連の無人月探査は、1976年8月の「ルナ24号」が月面危難の海に着陸し、サンプルを持ち帰ることに成功して、一段落した。

その後、1990年代に至るまで、人類の月探査は行われることはなかった。国による宇宙開発の焦点が、地球を周回する軌道での有人宇宙活動へと移ったからである。

アポロ11号が月面に着陸した206日後の、1970年2月11日、日本の東京大学・宇宙航空研究所(現在のJAXA/ISASの前身)は独自開発のL-4Sロケットで、日本初の人工衛星「おおすみ」の打上げに成功した。

初の月到達でも、初の月面着陸でもない。初の人工衛星である。これが1970年、つまり「人類の進歩と調和」を謳った大阪万国博覧会「EXPO70」が開催された年における、彼我の格差であった。

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人工衛星「おおすみ」 (クレジット:JAXA)

1970年の段階で、日本には宇宙技術を担当する国の組織が3つあった。東京大学・生産技術研究所での学術研究から始まった、東京大学・宇宙航空研究所、アメリカからの技術導入を通じて宇宙技術の国産化を行う特殊法人の宇宙開発事業団(NASDA)、科学技術庁の研究所で、航空技術の延長で宇宙技術の研究を行うようになった科技庁・航空宇宙技術研究所(NAL)である。このうち、科学探査、他天体探査を担ったのは、東大・宇航研であった。東大・宇航研は、1981年に大学共同利用機関の文部省宇宙科学研究所として発展的に改組され、ほぼ毎年科学衛星を1機打ち上げて、様々な成果を上げていくことになる。その中から1980年代後半に入ると、月探査計画の検討も始まった。

が、最初の試みは、直接月の探査を狙ったものではなかった。天体の重力を使って探査機の軌道を変えるという、軌道工学の技術試験が、結果として日本の月探査の最初の一歩となったのである。

― 瓢箪から駒の最初の月への挑戦「ひてん」 ―

天体の重力を使って探査機を加速したり減速したりして、その軌道を変更することをスイングバイという。天体は止まっているわけではない。月は地球の周りを公転しているし、地球は太陽の周りを公転している。だから探査機をうまいぐあいに天体に近づいてまた遠ざかる軌道を通してやると、天体の重力を介して探査機の運動エネルギーを天体に移し替えたり、逆に天体の公転の運動エネルギーを探査機の運動エネルギーとして受け取ったりすることができる。探査機からすれば、推進剤もロケットエンジンもなしに加速減速や軌道の変更ができるわけだ。

日本で、最初にスイングバイ技術を必要としたのは地球磁気圏の研究者たちだった。地球は磁場を持つ。地球周辺の空間で、磁場は太陽から吹き出す荷電粒子(プラズマ)と相互作用して、地球磁気圏という複雑な物理現象が起きる場を形成する。太陽から吹き付けるプラズマは磁場と相互作用して、太陽とは反対方向に100万km以上もの「磁気圏の尾」と呼ばれるプラズマの尾をたなびかせる。

磁気圏の尾でいったいどんな物理現象が起きているのか。現場に観測衛星を送り込んで調べたい。それも、磁気圏の尾の、比較的地球に近いところや逆にずっと遠いところ、いろいろな場所に送り込みたい。しかし、何機も観測衛星を打ち上げるだけの余裕はない。

そこで、月の重力を使ったスイングバイで、観測衛星の軌道を何回も変更し、地球磁気圏の様々な場所を観測するという観測計画が動き出した。日米共同の磁気圏尾部観測衛星「GEOTAIL(ジオテイル)」である。

が、月を使ったスイングバイは本当にできるのか。ぶっつけ本番でできなかったらGEOTAILは失敗してしまう。そこで、月スイングバイを事前に実証する工学実験衛星の開発計画が、ISASに立ち上がった。開発コード名MUSES-A、打ち上げられて「ひてん」と命名された工学実験衛星である。

このひてんが、日本の月に向けた第一歩となった。月スイングバイを目的としたひてんは、当然のことながら月に接近する。そのせっかくのチャンスを、意欲的なISASの研究者たちは、むざむざ逃すようなことをしなかった。

ひてんは、月探査というよりも、月スイングバイという技術試験からまさに「瓢箪から駒」のように結果として、日本の月へのアクセスの先頭を切ったのである。

ひてんは1990年1月24日、M-3SIIロケット5号機で、内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられた。打上げ時重量197kgのひてんには、重量11kgの小さな孫衛星「はごろも」が搭載してあった。はごろもは夏みかんサイズの小さな固体ロケットモーター「KM-L」を備えていた。ひてんがスイングバイのために月に接近した際に、はごろもを分離。KM-Lの噴射で、月周回軌道に投入しようというのである。月周回軌道投入の確認は、はごろもが送信する電波で確認する予定だった。

打上げ後、ひてんは細長い長楕円軌道で地球を周回し、月スイングバイのタイミングを待った。ところが、打上げ1ヶ月後の2月21日に、はごろもの送信機が故障してしまう。

3月19日、ひてんは月から1万6472kmのところを通過して、最初の月スイングバイを実施した。日本はソ連、アメリカに次いで月近傍を通過する探査機を打ち上げた、世界で3番目の国となった。その際にひてんははごろもを分離、はごろもは内部に装備したタイマーで予定通り固体ロケットモーターの噴射を行った。通信機が故障していたために直接噴射の状態を知ることはできなかったが、噴射の光は、東京大学・木曽観測所の口径105cmシュミットカメラ(天体観測用のカメラ)が撮影に成功。はごろもが月周回軌道に入ったことを確認した。

これにより、日本は月周回軌道に人工物体を送り込んだ世界で3番目の国となった。

その後、ひてんは、2年にわたって月スイングバイの実験を実施し、さらに地表120kmの大気圏すれすれに突っ込んで、高層大気の空気低硬度で軌道を変えるエアロブレーキングの実験も成功させた。加えて、月とほぼ同じ軌道に入り、月と地球の重力が均衡するラグランジェ点を通過し、そこに小さなチリが捕獲されていないかの観測を実施。

そして1992年2月15日、ひてんは月の周回軌道に入り、1993年4月11日には月面・豊かの海のフレネリウス・クレーター近傍に落下し、ミッションを終了した。

ひてんが月面に衝突したことで、日本は月面に人工物体を到達させた世界で3番目の国になった。

なお、ひてんの成功を受けて、本番の磁気圏尾部観測衛星GEOTAILは1992年7月24日に打ち上げられた。GEOTAILの設計寿命は3年半だったが、その後2022年11月に運用を停止するまで、30年以上にわたって地球磁気圏の観測を続け、衛星の歴史の中でもまれに見る長寿衛星となった。

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左:工学実験衛星「ひてん」(MUSES-A) 右:磁気圏尾部観測衛星 GEOTAIL (クレジット:JAXA)

― 本格的科学探査のさきがけとなるはずだったLUNAR-A ―

日本の本格的な月探査は、1991年から開発が始まった月探査機「LUNAR-A」から始まる予定だった。LUNAR-Aは、月周回軌道から地震計を搭載した槍状のペネトレーターという装置を複数月面に落下させて突き刺し、月で発生する地震 ──月震という── を観測しようという野心的、かつ研究目的を絞り込んだ一点突破的な計画だ。

アメリカはアポロ計画で、月面に地震計を持ち込み、月震が起きていることを発見した。地震の震動の伝わり方を全地球的に調べると、地球内部の構造が分かる。同様に月に複数の地震計を設置して月震の震動を調べれば、月の内部構造も分かるはずだ。また、月震と地球の地震を比較すれば、月という星がどのような歴史的過程を経て今の姿になったかの手がかりを得ることもできるだろう。

LUNAR-Aは当初1995年に打ち上げる予定だった。ところが、肝心のペネトレーター、特にペネトレーター搭載の地震計の開発が難航した。打ち上げ予定はずるずると遅れ続け、LUNAR-Aの探査機本体が完成しても、ペネトレーターが完成しないので打ち上げることができないという状況が長く続いた。結局、開発開始から16年目の2007年に計画中止となってしまった。

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月探査機LUNAR-Aイメージ画 (クレジット:JAXA)

これは大変に惜しいことだった。というのも1972年にアポロ計画が終了し、1976年に旧ソ連の「ルナ24号」が月から帰還して以降、人類の月探査は20年近く停止したからである。アポロ計画が「有人月探査の実施」という、あまりにも巨大な成果を挙げてしまったので世界的に「しばらく月はもういい」という雰囲気になっていたのだった。

しかし一方で、アポロ計画やルナ計画で得られた観測結果で、月のすべてが分かったのかといえば、そうではなかった。むしろ新しい観測結果を得て、月を巡る科学的な謎は深まる一方だったのだ。LUNAR-Aはうまくいっていれば、人類による月探査の空白期間を埋めることができたはずだった。

アメリカでは1980年代にいくつかの月探査計画が議論されたが、実際の探査機計画として動き出すことはできなかった。1981年から運用を開始したスペースシャトルと、スペースシャトルでの建造を前提とする国際協力による宇宙ステーション計画で手一杯だったのである。スペースシャトルは、1986年のスペースシャトル「チャレンジャ−」爆発事故により後退を余儀なくされ、また宇宙ステーション計画も当初は1992年に完成予定が、ずるずると遅れ続けていた。この宇宙ステーション計画は後に「フリーダム」と命名され、さらに1991年のソ連崩壊を経てロシアが計画に参加し、現在の国際宇宙ステーション(ISS)となった。

― 国際宇宙ステーションの次の大型国際協力に備えろ ―

そのような状況の中1990年代半ばになると、宇宙開発事業団と宇宙科学研究所は、協力して大型の月探査計画を実施する可能性を探りはじめた。この動きを主導したのは、当時の五代富文・NASDA副理事長と、後にISAS所長や宇宙開発委員会・委員長を歴任することになる松尾弘毅・ISAS教授だった。

根本にあったのは、「いずれアメリカは有人月探査に戻ってくる」という読みだった。確かにアメリカはスペースシャトルと国際宇宙ステーションで手一杯だ。しかし、国際宇宙ステーションがいかに巨大な国際協力計画であっても、いかに予定が遅延し続けていたとしても、いつかは完成し、運用し、計画を終えることになる。

国際宇宙ステーションが完成した暁には、アメリカが世界をリードするために、次の大規模国際協力計画が必要になるはずだ。それはいったいどのような計画になるのか。

国際協力による有人月探査だ ── 五代副理事長と松尾教授はそのように情勢を読んだ。2人は1990年代初頭の段階で、後のアルテミス計画が動き出すことを先読みしていたのである。

では、いつか立ち上がるであろう国際協力による有人月探査に、日本が存在感を持って関与していくためには事前に何をしておくべきか。この問いに対する答えが、「無人探査機による月の総合的な科学探査」だった。

アポロ計画は、「人間を月面に降ろし、安全に帰還させる」ことが第一の目的だった。だから月面の一番降りやすい、月の表側、かつ赤道付近に着陸した。

が、次に月に有人探査を行うとすれば、単に月面に行って帰ってくるだけでは済まない。月面であっても、人が行くだけの意味がある場所に降りて探査を行う必要がある。月面がどんな場所か、月面のどこが、人類にとって行く価値のある場所かは、事前に十分な無人探査を行って調査する必要がある。そのための総合的な無人月探査を、アメリカに先行して行っておけば、その蓄積を持って日本は、国際協力による有人月探査に主体的に参加していくことができるだろう。

国内的にも、そのようなことを主張しても「何を夢物語のようなことを」と否定されないだけの状況が整いつつあった、特に1994年2月にNASDAの大型国産ロケット「H-II」初号機の打ち上げが成功したことは大きかった。日本が独自に、大型の月探査機を打ち上げることが可能になったのである。ここでNASDAとISASが協力すれば、LUNAR-Aのような一点突破型の月探査ではなく、月という星を包括的に調べる総合的な探査を実施することが可能になる ──。

日本の有人宇宙活動を担当するNASDAは、国際宇宙ステーションの次の大型国際協力計画である有人月探査に、より主体的に参加することが可能になる。宇宙科学を担当するISASは、今まで以上に大規模かつ総合的な月探査を実施することが可能になる。この協力は双方のwin-winを狙ったものだった。

― 大型・総合的月探査からこぼれたものは ―

1994年7月、総理府・宇宙開発委員会の長期ビジョン懇談会が、「新世紀の宇宙時代の創造に向けて」という報告書を発行した。これは15年後を見据えて、それまでに日本がやるべきことをまとめた公文書だが、その中に月探査をはじめとした宇宙科学計画の推進という文言が入った。

この文言を梃子にして、NASDA・ISAS共同の大型月周回探査機の検討が始まった。

1996年7月には東京大学・駒場キャンパスの構内に、「月探査周回衛星計画 駒場共同事務所」が設置された。計画に参加するのはNASDA、ISAS、国立天文台、さらには日本の各大学及び研究機関に所属する研究者たち。この時点で、検討されていたのはH-IIロケットでの打上げを前提とした、重量1.9トン、かつ月の裏側からの電波を中継するリレー衛星も搭載する大型探査機だった。

月面から高度100kmの軌道に入り、1年間をかけて月面の元素組成、鉱物組成、表面の地下構造、重力場、磁場などを探査する。加えてダスト,高エネルギー粒子,プラズマ,電磁波動などの月周辺宇宙環境の計測や、地球を遠く離れた月周回軌道からの地球周辺空間のプラズマの状態の観測、さらには他惑星からの電波の観測なども検討するという多面的、総合的な探査構想となっていた。

この構想は発展して、のちに月周回衛星「かぐや」(2007年打上げ)となって実現する。

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月周回衛星「かぐや」(SELENE)観測時のイメージ図 (クレジット:JAXA)

1996年の時点で、大型月周回探査機には、「月面着陸の技術試験」という項目が入っていた。

月を周回する軌道は不安定で、放置しておくと軌道はどんどんずれて、探査機が月面に墜落したりする。このため月周回探査機は小さなロケットエンジンを装備して、時々軌道を修正してやる必要がある。

検討段階の月周回探査機は、このことを利用して、月面への着陸の技術試験もまとめて実施しようした。探査機のロケットエンジンや推進剤タンクなどの推進システムを、探査機から分離して動作するように設計しておく。月周回軌道での1年間の観測を実施した後、推進システムを分離。推進システムは逆噴射を使った月面に軟着陸する技術試験を行う、というものだった。

この「月面着陸の技術試験」は、2000年になって「危険性が大きい」として探査機全体の構想から外されてしまう。

が、外された「月面着陸」という課題が、後にSLIMへとつながっていくことになるのである。

追記:2025年7月24日、五代富文氏が逝去されました。享年92歳。その功績を称えると共に、謹んで哀悼の意を表します。
※本記事の一部は、筆者・松浦氏による取材や見解に基づき構成されています。

◇著者:松浦 晋也
◇プロフィール:ノンフィクション・ライター 
1962年、東京都生まれ。慶應義塾大学理工学部卒、同大学院メディア・政策研究科修了後、日経BP社の記者として宇宙開発等の取材経験を経て独立。宇宙開発、コンピューター・通信、交通論などの分野で取材・執筆活動を行っている。