初代フライトディレクターとして「きぼう」建設に参加

ずっと国際宇宙ステーション(ISS)に携わってこられました。

宇宙研に来てからまだ1年半くらいです。NASDAに入社したのが1993年。最初の2年ほど人工衛星の運用を担当し、それ以降は20年近くずっとISSに関わってきました。当時はまだ日本実験棟「きぼう」を造っている段階でした。電気系出身の私は、まず通信系の開発をやり、その後はつくばの管制室立ち上げに参加しました。打上げ後は初代フライトディレクターの一人として、「きぼう」建設やその後のISS運用管制の指揮を執りました。フライトディレクターといっても日本では初めてのことなので、その役割や定義にしても明確なものはなく、まずはNASAの現場を見てみようと半年ほどヒューストンに滞在し勉強しました。宇宙ステーションはその当時まだ無人運用でしたが、有人スペースシャトルが日本の運用チーム立ち上げの参考になると考えたのです。

どんなことに苦労されましたか。

打上げまでの助走期間がすごく長く、いよいよという段階で延期になったことが何度もありました。その間、チームのモチベーションを維持することに一番神経を使いました。フライトディレクターはオーケストラでいえば指揮者です。電気系、熱制御系、地上システム、実験装置など、総勢100人くらいからなる管制チームをとりまとめていく。宇宙ステーション建設はロシアやほかの国でもやっているので、あまりに進展が遅いとプロジェクトを離れていく人も出てくるからです。打上げ準備中にNASAのチームとの間で細かな課題が見つかり、それを1つずつつぶしていく作業も大変でした。「きぼう」はスペースシャトルで3回に分けて打ち上げましたが、中でも印象が強いのは、第2便で最大モジュールの船内実験室を打ち上げたときのこと。そのミッションを日本側としてまとめるという大仕事で、無事完了したときの感動もまたひとしおでした。

国際的にも評価が高い宇宙研の実力

国際調整主幹として宇宙研での役割は。

ISSプロジェクトを離れてからパリに3年近く駐在しました。そのころからドイツやフランスとか、ヨーロッパ宇宙機関(ESA)とJAXAの橋渡しをするような業務を通じて、国際間の情報交流や人的なパイプづくりなど、現在の職のベースとなるものを構築してきたような思いがあります。当時から「宇宙研は国際協力についても活発だ」という印象がありました。いうまでもなく、宇宙研のプログラムはほとんどのものが国際調整で成り立っています。「はやぶさ2」にしてもメインは日本でやっていますが、ドイツ・フランスが造った小型着陸機を載せたように、国際協力が不可欠です。宇宙研においては、研究者自身が各自国際的なネットワークを持っています。それはすごく大事なチャンネルで最大限に活用していくべきだと思いますが、一方で、宇宙研全体としてこういう方向に進んでいくんだというベクトルを国際的に発信していく必要もあるのではないかと思います。バラバラで動いてはいけないので、ベクトル合わせというとおかしな言い方になりますが、宇宙開発におけるJAXAの役割や国際情勢などを俯瞰しつつ、研究所としての方向性を示していくことも国際調整の役割ではないかと考えます。

宇宙研の今後に期待することは。

予算規模でいえばJAXAはNASAの十分の一以下です。とはいいながら、宇宙ステーション建設もそうですし、「はやぶさ」を含めた探査実績は国際的なネームバリューを確立しています。こじんまりしたチームながら、個々のプロジェクト成果をこつこつと積み上げてきた、やることをきっちりやる信頼感を世界は私たちに抱いていると思います。つい最近も火星衛星探査計画を立ち上げるなど、小ぶりながらも光るミッションはヨーロッパでもかなり注目を集めています。宇宙開発のトレンドは、今、月や火星探査に向かっていますが、我々にはいろんなミッションで積み上げてきた探査の能力があり、有人の宇宙活動をサポートしてきた実績もあります。今後、それらの技術やノウハウを活用する場面が出てくることは十分期待されます。また、これまで実用衛星に目を向けていた東南アジア諸国も、最近は宇宙科学に次第に興味を示しつつあります。アジアの中では先行している日本の技術やノウハウを示し、各国のレベルアップに寄与することも我々に課せられた課題だと思います。

ところで、休日はどのように過ごされていますか。

相模原には単身赴任で来ていて、週末につくばの自宅に帰る生活です。子どもも、上の息子は大学に行って家にいないし、娘も高校生になって会話もそれほど続かなくなってきました。帰っても相手をしてくれるのは柴犬くらいで、ほぼ犬と戯れていますね(笑)。

【 ISASニュース 2019年2月号(No.455) 掲載】