多様なJAXA

宇宙開発に興味を覚えたのはいつ頃ですか?

小学生の頃ですが、NASAの惑星探査機ボイジャー1・2号がきっかけとなったと思います。木星の環や衛星イオの火山についての新発見があったり、土星の鮮明な写真を見て触発されました。当時、テレビで放映していた惑星探査特集なども大好きでしたね。高校に入るとすぐスペースシャトルの初飛行があり、これに感銘を受けて進路が決まりました。大学では「航空宇宙」を学びました。

いろいろな部署・仕事を経験されていますが。

少数派かもしれませんが事業所も職種もいくつか経験していて、ある意味で財産になっています。採用後の初任地は筑波でしたが、次の調布は航空部門が中心で、ここには10年ほど居ました。当時は宇宙往還機の研究開発が行われていて、エンジニアとして熱・構造・空力などを担当しました。このプロジェクトは残念ながら中止されてしまって、実際に飛ぶことはできませんでしたが、そういう終わり方も貴重な経験になりました。その後に文部科学省に出向したのち、2004年に宇宙研に異動しました。M-Vロケットの6号機・8号機・7号機(打上げ順)で、ロケットと科学衛星のインターフェイスを担当。科学衛星プロジェクトの先生方にいろいろ教えていただきながら行うという、大変恵まれた仕事でした。そのM-Vロケットも残念ながら中止が決定し、プロジェクトの別の終わり方を体験しました。M-Vロケットの後継である次期固体ロケットのプロジェクト立上げの仕事をしましたが、イプシロンという名前が付いた直後に人事部(東京)に異動となりました。由来の異なる複数事業所の経験は、JAXAの多様性を理解したうえで人事業務を行うという点で、とても助けになりました。その後はしばらく管理部門にいましたが、昨年10月に再び宇宙研に戻ってきました。

今も忘れない「ひので」と小杉先生の一言

最も印象に残っている仕事は?

3つの打上げの最後、M-Vの7号機と太陽観測衛星「ひので」(SOLAR-B)ですね。この時、プロジェクトマネジャーを務めておられた小杉健郎先生(故人)に大変お世話になりました。打上げが迫って衛星側が多忙なときでも、本当に丁寧にいろいろと教えていただいたのですが、宇宙研の食堂で行われた打上げ成功祝賀会の一コマが忘れられません。「ひので」の観測画像を流しながら杯を傾けたのですが、「まだ誰も見たことのない現象がここに映っているんだよね」と、かみしめるように話してくださいました。残念ながら先生は、その数日後に急逝されたのですが、宇宙研で働くすばらしさを最も感じさせられた瞬間でした。

2度目の宇宙研の感想、そして現在の仕事は?

正直に言いますと、最初に宇宙研に来たときは少し違和感を覚えました。JAXAとして統合された直後ということもあって、宇宙研以外の人に対する距離感のようなものを感じたんですね。もちろん、それから長くお仕事させていただくなかで、宇宙研らしい熱さや濃さを共有できるようになりました。そして宇宙研を離れてしばらく経って、昨年また戻ってきたときは、今度はファミリーの一員かのように温かく迎えていただきました。何人かの人に「お帰りなさい」と声をかけてもらい、とてもうれしく思いました。

1度目はロケット側でしたが、今度はどちらかというと衛星・探査機側の仕事です。現在は宇宙科学プログラム室の室長をしていますが、プロジェクトの卵のチームが行う技術的な検討をサポートする仕事です。これから大きなプロジェクトに発展していこうとするチームたちですが、初期には担当する人も少なく技術的サポートも十分ではないので、お役に立てればと思います。こういうサポートは宇宙研らしい特徴だと思いますし、それぞれのチームの活動が前に進んでいくのは私としてもとてもうれしく思います。

【 ISASニュース 2017年11月号(No.440) 掲載】