GEOTAILは、宇宙研が衛星開発と運用管制を担当し、NASAが打ち上げを担当する、観測装置の分担とデータ受信は日米双方で協力するという大型国際協力ミッションとして計画された(1)。この枠組みはNASAからの提案(1983年)に基づいて決められたが、その際、当時の宇宙研所長・小田稔先生は、NASA流の大量の文書に基づくプロジェクトマネジメント方式でなく、宇宙研流(最低限の文書作成)の衛星開発方式にNASAも同意する事を要求したのであった。

この事に代表されるように、当時の宇宙研とNASAではプロジェクトの進め方が大きく異なり、他にも意思決定方式や予算システム、ITARや損害賠償に関する法的問題など、様々な違いが多く存在し、いわばcultureが違うわけで、使用言語の障壁もあった。プロジェクトの共通言語は英語としたが、当時、宇宙研やメーカーの技術者で英会話に堪能な人は少なく、英語と日本語の文法・文章構成の違いは物事の思考順序の違いでもあり、そのため、誤解や不要な混乱が頻発した。

このような様々な障害を乗り越えてプロジェクトが成功に至った最大の要因は、双方のプロジェクトメンバー間の信頼関係が構築されたことであった。しかし、信頼関係の構築はそう簡単な事ではない。まず、初期フェーズの頃、中谷一郎先生がNASA側のプロジェクトを担うゴダード宇宙飛行センターに滞在し、NASAのプロジェクト管理方式を経験した事が非常に大きかった。帰国後、中谷先生はNASA側のシステムマネージャのMac Grantと緊密な連絡体制を作り、様々な複雑な問題を宇宙研方式に翻訳・解釈して日本側での対処を促し、一方、Mac GrantもNASA側で同様な役割を果たした。その事により日米のプロジェクトメンバーは物事の対処法における日米間の違いを認識して、双方のcultureを尊重、誠実な対応を通じて信頼関係が構築されたのであった。

言うまでもないことだが、その背景として日本の宇宙技術が世界的に通用するレベルに到達していたからこそ信用されたのであった。また、科学観測における当時の日本側の実績は米国側と比較して遥かに少なかったが、潜在的な観測技術レベルは世界的に十分通用する状況にあった。すなわち、お互いに競争できるレベルにあったからこそ協力する場合に信用されたと云える。

Mario Acuna博士(GEOTAILを含むNASA GGS ProjectScientist)は宇宙研方式に対する信頼感を込めて次のように語った。
"In ISAS, things were accomplished in a few hoursthat would have taken months in the United States.......the development of a mutual trust relationship betweenthe partners was perhaps the most critical element of all forsuccess."

以上、国際協力プロジェクトの推進に際して信頼関係の重要性について述べてきたが、科学衛星の成功はその科学成果の質と量によって評価される。ここでは多くの科学成果を生み出した要因について述べる。

1) ミッション目的に合致した軌道設計が功を奏した。具体的には、打ち上げ後の2年余りの間、二重月スウィングバイ技術によって地球磁気圏の広範な遠尾部の探査を行った後、近尾部軌道に移動し、特に、磁気リコネクションが発生する確率が高い領域の探査において衛星が日陰に入らないように設計された。このような軌道の磁気圏探査ミッションは過去になく、次項に述べる新規性のある観測装置と相俟って多くの新しい現象が発見された。

2) 観測装置設計における新規アイディア(特に、日本側担当のプラズマ粒子観測装置(LEP)とプラズマ波動の波形観測装置)が高精度・高時間分解能の観測を可能とした。

3) それらの新たな現象・観測データが計算機シミュレーションで再現される等、宇宙プラズマの理論的な研究も大きく進展した。その結果に刺激されて観測データの利用者(研究者・大学院生)が増加した。

4) 観測データの公開、特に、NASAのデータセンターから公開されたkey parametersを見て、データ利用者が汎世界的に増大した。

いずれも、今では当然と思われる事ばかりのように思われるかもしれないが、30年以上前では新たな試みであった。

なお、LEPの観測データに基づいて数多くの論文が生まれ、GEOTAILの成果増大に貢献したが、実は、LEPは打ち上げ1カ月後の初期運用の途中でラッチアップしたのであった。その回復のためには衛星全体の電源をオフ・オンする必要があった。宇宙研工学と担当メーカーの検討結果に基づいて衛星が月の陰に入るように軌道設計を変更し、日陰中に衛星バッテリーを切り離し(電源をオフ)、日照に出て太陽電池による発電で復帰させるという運用が計画された。この計画に米国側も賛同したのは日本側の検討結果を信用したからであった。LEPの回復は正に信頼関係のおかげであった。

上記のような次第で、GEOTAILは1990年代の磁気圏観測衛星の中で最も成功したミッションと言われた。計画立案段階から長年にわたってミッションを牽引した西田篤弘先生が宇宙研所長を退官した時、NASA有志がゴダード宇宙飛行センターで "Nishida Honor Symposium" を主催したのはその一端の表れである。

(1)文集「GEOTAIL計画をふりかえる」において「GEOTAIL計画の生い立ち」(西田篤弘)
https://sprg.isas.jaxa.jp/researchTeam/spacePlasma/mission/GEOTAIL/PDF/0_文集.pdf

geotail_2_1.jpg

NASA OPEN計画の代表者が宇宙研来訪、ISAS首脳部OPEN-J → GEOTAILに合意(1983年9月、駒場)

geotail_2_2.jpg

FM開発着手前のNASA/GSFCで行われたJoint Working Group会合(1988年11月)

geotail_2_3.jpg

左から上杉邦憲、中谷一郎、Mac Grant(いずれも敬称略)1989年12月

geotail_2_4.jpg

右上:LEPのFMセンサーを組み上げている筆者 左下:筆者とMario Acuna

geotail_2_5.jpg

GEOTAILの長年のリーダー・西田篤弘所長の退官記念のシンポジウム@NASA/GSFC