科学衛星計画、始動

日本の科学衛星計画は、糸川英夫先生の他、電気工学がご専門の高木昇先生や斉藤成文先生や野村民也先生、高速空気力学がご専門の玉木章夫先生、構造力学の森大吉郎先生など、多くの意欲的な研究者が日本の宇宙開発を先導されてきました。日本初の人工衛星「おおすみ」という計画は、科学衛星計画を進める上で派生した先駆的な仕事だったのです。

この1960年代の初めという時代は、アメリカでアポロ計画が始動しており、ソ連による有人飛行も実現していた時代です。日本は、というと、政府部内に「宇宙開発審議会」が設置された時期でした。こういう時代に、糸川先生が中心となり、東京大学の生産技術研究所内のチームで人工衛星計画を進めていました。「ミュー計画」の骨子が作り上げられ、直径1.4mのミューロケットという仕様が決まっていきました。

次に、当時の政府に人工衛星計画を認めてもらうため、まずは学者の合意を作り上げていきました。そして、新しい研究所を作って衛星の打上げを本格的に推進することになり、東京大学宇宙航空研究所(現JAXA 宇宙科学研究所の前身)が1964年に新たに設立されたのです。その後の1966年8月には、宇宙開発審議会での議論を経て、ミューロケットによる科学衛星計画が認められました。

元宇宙科学研究所長/現・NPO法人 北海道宇宙科学技術創成センター会長 秋葉 鐐二郎

全部が失敗、全部が成功

L-4S計画で最初の打上げは1966年9月です。これはものの見事に「失敗」した実験です。「失敗」から「学習」して成功を確実にしていくために、基礎実験をたくさん行いました。そして、1970年2月11日、5機目でやっと「おおすみ」を軌道に乗せることができたのです。

L-4Sの実験を総括すれば、「全部が失敗して、全部が成功した」と言っていいと思います。全部が「学習過程」でした。問題点を直し、衛星を打上げるために獲得しなければいけない技術を一つ一つ確かめていたというのが1960年代後半です。

「おおすみ」自体も、「成功」とは言いながら、そうとは言い切れない部分もあります。地球を二周して電波が切れたのです。この原因は、「おおすみ」は最終段のエンジンと衛星本体がくっついているため、燃え尽きたロケットエンジンの熱がじわりじわりと衛星に伝わり、電源が故障したためと推測しています。このことから、いわばL-4Sの実験は「おおすみ」も含めて全部が失敗した実験であり、全部が成功した実験であるというのが私の総括です。

元宇宙科学研究所長/現・NPO法人 北海道宇宙科学技術創成センター会長 秋葉 鐐二郎

これからの宇宙開発

さて、「おおすみ」から50年経過し、我々は様々な応用を考え、夢を語ることができるようにはなりました。しかし、「大きな忘れ物」をしていないでしょうか? つまり、宇宙に出て行く手段は本当にちゃんとしたものになっているでしょうか?

宇宙開発は国だけがやっていくという時代ではありません。今後は、民生利用が大いに発展し、民間と国が協調しながら大きく展開する時代になっていくでしょう。そういう時代に、例えばロケット打上げ手段は適切でしょうか? 今は、打上げは地上から行われています。大きな音を立てて光と噴煙を残して飛び立つロケットには心躍るものがあります。しかし、それを一日に何回も行っては、地上の生活は非常に乱されます。

ですから今後は、高空、つまり、成層圏からの打上げに変わっていく時代だろうと私は思います。そうすれば、成層圏までロケットを上げる、その分のエネルギーが大いに助かり、ロケットの効率は格段によくなります。さらに、これからは地上でいろんな試験をして、固唾をのんで衛星を打上げる時代ではなくなるでしょう。その代わり、最初から宇宙で組み立てる時代になるでしょう。

こうしたことができるためには、打上げに際して、スペースデブリの対策などをしつつ、ランデブーやドッキングなどを日常的に安全にできるようにする必要があります。また、宇宙ステーションも、宇宙輸送系の拠点としての役割を果たすのではないかと考えています。

元宇宙科学研究所長/現・NPO法人 北海道宇宙科学技術創成センター会長 秋葉 鐐二郎

結びに

「おおすみ」を打ち上げたL-4S計画は、「集団の成果」です。誰か一人がよいことを考えたからできたというものではありません。ですから、引き続き「集団の成果」をあげていくために、これからの教育を考えるということがまず基本だ、と、この点を最後に申し上げたいと思います。

今後も様々な宇宙科学探査の計画をされていると伺いますが、もっと一層素晴らしい成果をもたらすことを期待しております。