宇宙政策をライフワークに

JAXAに来られる前から、テクノクラートとしてさまざまな科学技術行政に携わってこられました。

1985年に当時の科学技術庁に入庁、2010年にJAXAに総務部長として赴任するまでの25年間、いろいろな科学技術行政に携わってきました。例えば1996年に策定された科学技術基本計画における「ポスドク1万人支援計画」。当時は、博士課程を終了した研究員の確保が政策課題でしたので、政府としてポストドクターを1万人まで増やして支援しようというものでした。また、今では当たり前になりましたが、国家公務員の任期付き採用の実現にも取り組みました。人材の確保は今でも重要な政策課題です。

文科省となってからは阪神・淡路大震災を受けて、大型構造物の耐震性を検証するための大規模実験施設(E-ディフェンス)の兵庫県での建設計画や、東京に43カ国の閣僚級が集まって開催された「地球観測サミット」に携わるなど、科学技術行政においてはいろいろな仕事を経験させてもらいました。それが今の仕事に非常に役立っていると思います。

宇宙開発関連業務との出会いは。

JAXAの在籍期間は長くはないものの、宇宙関連の業務はこれが初めてというわけではありません。実は、新卒で最初に担当したのが当時総理府にあった「宇宙開発委員会」の事務局でした。事務局という職務上、宇宙研の教授や旧NASDAの職員が熱い議論を交えるのを間近で見てきました。互いに知恵を絞り合い、ある意味良いライバル関係でやっておられて、役所の立場でそれを支え調整していくのが私の役割でした。そんな運命的な出会いがあって、若いころから"できれば宇宙政策関係の仕事をライフワークにしたい"と考えてきました。人事にもそれを要望していたおかげか、この10年ぐらいは宇宙にシフトさせていただいています。

京都大学では宇宙科学とも関連の深い量子化学を専攻しました。たまたまですが、ノーベル化学賞の福井謙一先生の流れですね。ただ私の場合、学術そのものを追求したいとは思わなかった。子どものころから公務員志向がありまして、それも技術系の公務員になりたかったんです。技術の内容はなんでもいいといえば語弊がありますが、要は大所高所から科学技術の進展をサポートする仕事に就きたかった。私のテクノクラート志向は大学を卒業する時点で固まっていました。

相乗効果をいかに生み出すか

現在の仕事を簡単にいうと。

一言でいえば宇宙研のマネジメントになりますが、執行役として特に"改革"をモチーフに仕事をしています。例えば人事制度でいいますと、宇宙研の場合は教育職の先生方が多いので、一般の職員とは異なる特別なマネジメントが必要になる。長年の行政経験を踏まえて宇宙研にふさわしい制度を模索しています。私の仕事はその性質上、職員の皆さんの目に触れない水面下での仕事といえるかもしれませんが、この2年足らずで、労働条件の改正や人事評価制度の大幅な見直しなどに取り組むことができました。

宇宙研の課題と、今後の抱負は。

私が役所に入ったころは、宇宙研と宇宙開発事業団は別の組織でした。文科省になるとJAXAとして統合され、今はそれぞれがメリットを持ち寄っていかに相乗効果を発揮できるかという時代に入りました。今回のX線天文衛星「ひとみ」の異常事象究明などは典型例で、JAXA全体でこれに注力して対策を検討しました。難局と向かい合って、強いまとまりが生まれたのは一つの進化だと思います。4年後、東京オリンピック・パラリンピックが終わったころに、小惑星探査機「はやぶさ2」が帰還します。その前には小型月着陸実証機「SLIM」が月に着陸する予定です。JAXAにとって大変重要な意味を持つこれらのプロジェクトを確実に成功させること、国民の期待に必ず応えるための環境整備が、私に課せられた重要な使命だと考えています。

【 ISASニュース 2016年10月号(No.427) 掲載】