火星の飛行探査

太陽系惑星の中で地球の隣に位置し、かつて生命が存在したのではないかと考えられている火星は私たちを強く魅了する。これまでの探査によって、エベレストの約3倍の標高を誇るオリンポス山や長さが約4,000kmにもわたるマリネリス峡谷など、起伏に富んだ火星のダイナミックな地形や、地球と同様にプレートテクトニクスの可能性を示唆する残留磁場分布など、火星の様々な様相が明らかになってきた。これらの成果はNASAやESAが中心となって送り込んできた人工衛星や着陸探査機によるものだ。筆者らはこのような人工衛星や着陸探査機ではできない新しい探査手法として、火星探査航空機を使った上空からの飛行探査を構想している。航空機探査が可能となれば、探査ローバーのように火星の複雑な地形に左右されることなく、水平・垂直方向に自由に探査することができる。また人工衛星では撮影が困難な場所、例えば峡谷の断層面の画像撮影などができれば、火星内部の地層の歴史を知る手がかりとなり、惑星地質学的意義は大きい。さらに目標に近づいて低・中高度からデータ取得が可能なことから、人工衛星から得られた残留磁場分布よりも高解像度なデータ取得が可能となり、プレートテクトニクスの仮説を補強する重要なデータとなり得る。このように広い探査領域を確保しつつ、より詳細なデータ取得が可能となることから、日本独自のサイエンスミッションの確立とその成果に期待が寄せられる。本記事では、世界に先駆けて火星の飛行探査に挑戦する火星探査航空機の開発の一端として、主翼や機体全体の空力研究について紹介する。

直面する空力課題

幸いにも、火星の重力加速度は地球の約3分の1程度となるため、火星大気飛行で必要な揚力も約3分の1でよい。これだけ見れば、火星で飛行機を飛ばすことはさほど難しくないように思われる。しかし、話はそう単純ではない。火星で航空機を飛ばすことは一体何が難しいのか。流体力学的に最も強く影響するのは火星の大気密度である。火星の大気密度は地球とは大きく異なり、地球の約100分の1程度と非常に希薄となる。このような希薄環境では得られる揚力も100分の1程度と圧倒的に小さくなる。このため、わずかに存在するこの希薄気体の力を利用して飛行を成立させるだけの揚力を得なければならず、航空機を飛ばすには過酷な環境と言える。さらに様々な制約条件が加わる。例えば、火星探査航空機は画像撮影などの探査を目的としているため、揚力を稼ぐために過度に飛行速度を上げることができない。また、火星までは直径1m程度のカプセルに翼を折り畳んで収納するため、主翼面積もほとんど限られている。このようなことから、飛行を成立させる揚力確保には、機体の軽量化に加えて翼自体の空力性能を大幅に向上させることが必須の課題となる。

低い大気密度は翼周りの流れの物理にも影響し、結果的に空力性能にも影響する。と言うのも、翼周りの気体の流れは密度や温度、ガス種によって変化するため、地球上の飛行で空力性能が良いものが火星でも性能が良いわけではない。むしろその逆とも言える。例えば、火星飛行の条件下では、上下対称な流線型の翼よりもただの平板や板を少し曲げた円弧型の単純な形の翼の方が何倍も高い揚力が発生するなど、火星では民間航空機用の翼設計では予測しきれない独特な空力特性を示す。こう言ったことから、火星大気飛行条件で翼の空力性能を正確に把握し、なおかつ高い空力性能を持つ主翼の設計開発が要求される。

火星での飛行を地上で模擬する火星大気風洞

筆者は東北大学大学院在籍時に火星での飛行を地上で模擬して、翼の空力性能を検証できる実験装置、「火星大気風洞」(図1)の開発に取り組んだ。風洞試験では流れの相似法則を利用して幾何学的な相似(物体形状や姿勢)が力学的にも相似になるようレイノルズ数(脚注1参照)(Re数)とマッハ数(M数)を実際の飛行条件に合わせる。ところが火星では、Re数が10⁴オーダー(民間航空機のRe数は10⁷~10⁸程度)と非常に低くなり、さらに火星での音速が低いことからM数も上がりやすいため、飛行速度によっては遷音速に近い高亜音速領域(M = 0.7程度)となる。したがってこのような低Re数の高亜音速領域は、地球上の航空機設計でほとんど直面することのない、非常に特殊な気流領域である。このため、火星での飛行条件のRe数とM数を同時に満たし、空力検証ができる風洞自体が世界的に存在せず、空力特性の詳細は未知の気流領域であった。

火星での飛行を模擬する火星大気風洞の概観

超音速エジェクター

図1 火星での飛行を模擬する火星大気風洞の概観(上)。超音速エジェクター(下)。真空チャンバー内部に吸い込み式風洞が設置され、風洞測定部の下流側に設置したエジェクターから高圧ガスを噴射することで上流側の測定部に流れを誘起する。真空チャンバーの直径は約1.8m。

この火星大気風洞は風洞自体を真空チャンバーの中に入れる大胆な構造をとり、チャンバー内部で火星と同じような減圧環境を作って気流を発生させる、というコンセプトである。しかし、このような構成では設計当初、「減圧環境でいかに高速気流を発生させるか」という課題にぶつかった。一般的に風洞はそのほとんどがファン駆動であるが、これだと減圧環境では駆動効率が著しく低下するため、目標とする高速気流を発生できない。そこで、種々の方式を検討した結果、ポンプや一部のエンジンなどで使われている高圧噴射器に着目し、より大きな投入エネルギーで高い誘起流速が期待できる超音速エジェクターを駆動装置として採用した。これは測定部の下流から噴射される高圧ガスによって上流側の測定部に流れを誘起する駆動システムであるが、世界的にも風洞の駆動装置としてエジェクターが使用された実例はほとんどなかった。しかし、普通ではない環境での飛行に挑戦しようとしているので、常識にとらわれない発想のもと、このエジェクターを採用することにした。入念な気流の検定試験や地道にオペレーションシステムを構築することによって、ついに目標とする気流領域をカバーできる風洞を開発することができた。

飛行成立に向けた高性能主翼開発

2011年当時、ISAS/JAXAへと研究の場を移した筆者は火星探査航空機を検討するワーキンググループ(WG)に所属し、飛行を成立させる高性能な主翼開発に向けて、その手がかりを探っていた。実はRe数だけであれば、地球上でも火星での飛行と同等の低Re数領域で飛行するものがある。その特徴は物体のスケールが小さく、またゆっくりと飛行するものであり、昆虫や模型飛行機などがそれに相当する。昆虫などの生物の飛行が火星航空機の飛行に近い物理である点は学術的にも大変興味深いが、生物の飛翔では羽ばたき運動が関連して現象が複雑となるため、検討段階では航空機設計への直接的な適用は難しいと判断された。そこで固定翼を使うハンドランチグライダー(HLG)に着目した。特にHLGのフリーフライトで当時の世界記録保持者であった石井満氏が制作し、愛好家の間でも高性能として知られていた"石井翼型"(図2)に狙いを定めた。石井翼型は主流方向の長さ(翼弦長)が1mの場合、厚みは最大でもわずか7cm程度と非常に薄いのが特徴である。実用的には構造強度が確保できる限界に近い厚みと言える。また下面形状も独特で、特に翼の後端部分では、上面にぐっと反り返った形状となっている。この翼型は一体どの程度性能が良いのか、またなぜこの形状で性能が良いか、その物理的なメカニズムを明らかにすることで火星探査航空機の主翼設計の切り口にしようとした。

石井翼型(実線)と一般的な対称翼型NACA0012(点線)の比較

図2 石井翼型(実線)と一般的な対称翼型NACA0012(点線)の比較。

筆者らは火星大気風洞や感圧塗料センサーなどの関連計測技術を駆使し、Re数だけでなくM数も火星での巡行飛行に合わせた入念な風洞試験を実施した。これに加えて、数値流体解析グループと共同で翼周りの詳細な流体物理の解明に迫った.その結果、当時、世界的に低Re数領域で優れた翼とされていたイリノイ大学のSD7003翼型よりも石井翼型は広い迎角範囲で15〜 20%程度も高い空力性能を持つことが示された。また低Re数領域では翼面上で層流剥離(※2)しやすいが、石井翼型は翼の後縁付近まで付着流れを維持し、前縁からの絶妙な膨らみ具合と平坦に近い中央付近の形状によって早期の層流剥離を防いでいることが分かった。さらに迎角の上昇に伴って、前方で剥離したとしてもすぐに再付着させることで、剥離泡と呼ばれる強い低圧領域を形成し、揚力を高める要因を作るなど、石井翼の巧みな形状が生み出す物理的な特徴の全容が明らかとなった。これらの結果をもとにして、その他の翼型とも性能比較していくことで、石井翼型からさらに高い空力性能を得るための改良に向けた設計指針を見出した。

※2 層流剥離 物体表面に沿った時間的・空間的に安定した流れ(層流)が物体から剥がれてしまう現象。

高度36㎞で挑んだ実飛行試験

石井翼型の詳細な空力特性を把握していたことや、当時想定されていたペイロードでは石井翼型でも飛行が成立する見込みがあったことから、 WGで設計された火星探査航空機の初号機では石井翼型が主翼として採用された。残念ながら火星大気風洞では2次元形状の小さな模型しか検証できないため、全機形状のような大きな模型では一般的な低速風洞や火星大気風洞に近い減圧風洞(ISAS/JAXAの惑星環境風洞)を使用するしかない。Re数のみを合わせた場合、M数が現実よりも非常に小さくなってしまい、高亜音速領域で生じる気体の圧縮性効果が空力に及ぼす影響がどの程度か見積もることができない。空力設計の観点からは数値計算以外にも、火星に持っていく前に全機モデルを使って何とか圧縮性効果まで検証しておく必要があった。そんな要求に応えるために実施したのが高度36kmで挑戦した高高度飛行実証試験(MABE-1)である。高度30km以上の世界では、火星と同じくらい大気が薄く、平均温度も約-35℃となり、重力とガス種の影響は除いて空気力学的には火星飛行とほぼ同じRe数、M数で試験が可能となる。この試験はISAS/JAXAが提供する大気球による飛翔機会を得て、2016年6月12日に北海道大樹航空宇宙実験場にて実施された。大気球を使って高度36kmまで機体を上昇させ、そこから機体を切り離して滑空飛行させることで飛行中の空力データの取得を試みた。残念ながら予定していた時間全てでデータを得ることはできなかったが、高度36kmの高高度での飛行試験による全機空力データを初めて取得する成果を上げることができた。現在は、得られたデータの詳細な解析を進めており、今後の風洞試験や数値解析との比較によるフィードバックによって機体設計手法の確立を目指している。

火星探査航空機の初号機

機体が搭載されたゴンドラ

ISAS/JAXAの大気球

放球前の様子

図3 火星探査航空機の初号機(1枚目)。機体が搭載されたゴンドラ(2枚目)。ISAS/JAXAの大気球(3枚目)。放球前の様子(4枚目)。機体はゴンドラに搭載された状態で大気球によって高度36kmまで上昇する。目標高度でゴンドラの蓋を開けて機首を下に向けた状態で機体を切り離し、滑空させた。

謝辞

本記事の執筆は、筆者が2017年3月9日に第9回宇宙科学奨励賞を授与されたことに関連します。受賞対象となった研究の共著者である浅井圭介先生、永井大樹先生、藤井孝藏先生、大山聖先生、野々村拓先生、青野光先生、沼田大樹先生に深く感謝致します。また本記事で紹介した結果の一部はISAS/JAXAが提供する大気球による飛翔機会を利用して得られたものです。火星探査航空機WGの皆様、飛行試験でお世話になったISASの大気球実験グループの皆様に厚くお礼申し上げます。

脚注1 レイノルズ数:

気体や液体の流れを扱う流体力学の世界では、対象としている物体が非常に大きなものであっても、それをスケールダウンさせた小さな模型を使ってその物体周りの流れの特性を理解することができる、便利な相似法則が存在します。シンプルな例として、大きさだけが異なる2つの球の周りの流れを考えてみます。球なので形は全く同じですが、大きさが異なる上に球の周りを流れる流速が違うと、2つの球の周りの流体現象も異なってきます。しかし、両者の間で物理量に基づいたあるパラメータを一致させることができれば、たとえ球の大きさが異なっても物理的な流れのパターンは同一となり、片方の球に働く力が分かれば、他方の球に働く力も幾何学的もしくは力学的な倍率を掛けることで求めることができます。この、工学的に非常に有用なパラメータが「レイノルズ数(Re数)」です。一般的な表現をすると、物体の形状や姿勢など幾何学的な相似が、力学的にも相似であることを示す相似パラメータの1つになります(レイノルズの相似法則)。
Re数は物理的には流体が持つ粘性力と慣性力の相対的な大きさを表し、密度、流速、物体の代表的な長さ、流体の粘性(粘性係数)で構成される無次元パラメータです。自動車や航空機など、実際の工学的な問題の場合Re数は10⁵から10⁸程度になることが多く、特に10⁶以上の値になると高Re数と呼ばれ、流体が持つ慣性力の影響が大きくなります。高Re数では、流体中に"乱れ"が成長することで、時間的・空間的に不規則な流れである「乱流」が生じます。一方で、一般的に10⁵以下の場合は低Re数と呼ばれ、物体が小さく、ゆっくりと移動するもの、例えば昆虫の飛翔や小型模型飛行機などの場合がそうです。特殊な例では、火星など大気密度が地球の100分の1程度と非常に希薄な環境で飛行する火星探査航空機なども、10⁴程度の低Re数に相当します。低Re数では、物体表面に非常に近い領域(境界層)で流体の粘性力の影響が大きく働き、流体が時間的・空間的に安定した層流となります。層流状態か乱流状態かなど、流れの特徴もRe数によって整理することができるため、物体に働く空力特性を評価する上でも流体力学上、最も重要なパラメータの1つと言えます。

【 ISASニュース 2017年5月号(No.434) 掲載】