はじめに

「ひとみ」(ASTRO-H)は日本の6番目のX線天文衛星で、2016年2月17日にH-IIA 20号機により打ち上げられたが、その約1 ヶ月後、本格観測へ向けて準備を整えつつあった時に姿勢異常のために短い観測寿命を終えてしまった。X線分光に絞られるが「ひとみ」のサイエンスを引き継ぐ計画XRISMが、関係者の多大な努力の元に進められていることもあり、ここでは「ひとみ」が明らかにしたサイエンスの成果を紹介したい。

「ひとみ」という衛星計画の目玉はマイクロカロリメータ(SXS:表紙の写真を参照)という50 mKの極低温で動作するX線分光検出器であったが、衛星全体としてはX線分光が硬X線、軟ガンマ線の高感度の観測とタイアップすることで、宇宙で展開するダイナミックな現象を、エネルギーという軸を活用して解明しようとしたことが大きな特徴であった。「ひとみ」は大規模な国際協力により作られたが、日本が培ってきた独自の技術(冷却系、硬X線望遠鏡、硬X線・軟ガンマ線検出器など)が多く投入されていて、それを短期間とはいえ軌道上で実証したことは大きな成果である。また、米国、ヨーロッパ、カナダが参加した大きな国際ミッションとなった背景には、それだけ新しいサイエンスへの世界の期待が大きかったことがある。サイエンス結果の論文は"Hitomicollaboration"を著者とするものがNature, ApJ Letters, PASJを合わせて14編出版されているが(その一覧を最後につける)、本稿ではそれら全てを網羅するのではなく、ペルセウス座銀河団の結果を中心に話題を絞らせていただきたい。

最も多くの結果を出すことになった観測対象は図1に示すペルセウス座銀河団である。X線では全天で最も明るく、広がりは直径3度(3 . 9 Mpc≈ 1260万光年)ほどである。打上げ後ただちに観測可能な場所にあったことから、機器の立ち上げもままならない状態でこの銀河団を観測した。SXSの視野が3分角でもあり、観測されたのは中心から100 kpc以内の明るい領域である。SXSの冷凍機の運転開始直後でもあり、初日に得られたデータはまだ温度が下がっていく途中であったが、詳しいキャリブレーションのおかげで約5 eVというエネルギー分解能を出すことができ、約5千万度という高温プラズマから世界ではじめて高分解能の鉄の輝線スペクトルを得ることができた。

図1

図1 ペルセウス座銀河団中心部のChandra 衛星による画像に「ひとみ」SXS の視野を重ねたものと、SXS が観測したエネルギースペクトル。

He-likeイオンの輝線と輝線幅

図2に示すのはSXSが観測したHe-likeの鉄イオン[1]の輝線である。表紙の図に比較を示すように、「すざく」のCCDに比べてエネルギー分解能が30倍ほど高いため、これまで1本にしか見えなかった輝線群が4本ほどに分解された。輝線は、主量子数n= 2のL殻からn=1の基底状態への遷移に対応するが、L殻のエネルギー準位は軌道角運動量(sまたはp)と2電子の合成スピンが0か1かの組み合わせにより、1光子を放射して脱励起できる準位が4種類に分けられる。さらに、これらの準位からの遷移は光子が持ち去る角運動量を含めた選択則により、許容遷移(w)、禁制遷移(z)、異重項間遷移(x,y)[2]などに分類されていて、これらの輝線の幅、エネルギー、相対強度などが、プラズマについての新しい情報を我々にもたらすのである。

図2

図2 ペルセウス座銀河団の鉄のHe-like イオンの輝線。共鳴線wが熱放射のモデル(赤と青の実線)より弱く観測されている。

我々がまず注目したのは輝線の幅である。銀河団プラズマからの輝線は大きく3つの要素によって幅をもつはずである。①SXS検出器のエネルギー分解能(半値全幅4 . 9 eV)、②5千万度という温度で鉄イオンが熱運動することによる幅(FWHM 5 eV)、③プラズマの運動(特に乱流)が作る幅などであり、観測される輝線幅はこれらの2乗和の平方根となる。特に銀河団プラズマの乱流が一体どれほどあるのかが、はじめて明らかにされることに大きな関心と期待が寄せられていた。結果として、プラズマの乱流速度(視線速度をガウス分布とした1σの幅)は、銀河団中心から20 kpc以内(電波銀河NGC1275とそれを囲むX線空洞が存在)の場所で187±13km s-1、さらに30 kpc(10万光年)ほど外の領域が164±10 km s-1となった(望遠鏡の特性を考慮すると数値はわずかに変わる)。中心銀河NGC1275はジェットを放出していて、その圧力が高温プラズマを押しのけるためにX線の空洞が形成されている。ということはそこではプラズマの熱的な圧力に対抗するだけの動圧が持ち込まれていると考えねばならない。これに加えて、中心部のプラズマの冷却時間(プラズマの熱エネルギーを放射によって失う時間。プラズマ密度に反比例する)が109年のオーダーで、宇宙年齢よりはるかに短いため、エネルギーの注入がないとプラズマを5千万度に保持できないという問題がある。電波銀河が出すジェットのエネルギーが周りに拡散し、熱的な圧力に対抗しているとするなら、1, 000km s-1以上もの大きな乱流がおこっているとの予想もあったが、実際の乱流の大きさはそれよりはるかに小さく、その圧力はガス圧の4%にすぎなかった。銀河団中心部のプラズマが意外に静かであり、ジェットから注入されるエネルギーをどのようにプラズマへ伝えるのか、あるいは他のエネルギー源が関与しているのか、興味深く大事な問題を提起する結果である。

輝線エネルギー

銀河団の高温プラズマは大局的に動いているのか(例えば回転)、静止しているのかも大事な問題である。これを知るには銀河団内の場所ごとに輝線エネルギーの中心値、すなわち絶対エネルギーを正確に決める必要がある。このためのキャリブレーションは大変な作業であったが、結果的に中心エネルギーの決定精度は1eV以下となった。これをもとに高温プラズマの運動を調べたところ、図3に示すように、銀河団中心のジェットを含む領域が約80 km s-1で遠ざかり、北西に30 kpcほど離れた領域が約80 km s-1の速さで近づいていることがわかった。この北西領域は、輝度分布を詳しく調べるとX線の空洞が浮き上がって円弧状に広がったやや暗い構造が見えている。プラズマがまだ浮上し続けていてその方向が我々に近づく向きなのかもしれない。ただ、この2領域以外ではプラズマの集団としての運動は50 km s-1以下で、この点からもペルセウス座銀河団中心部は比較的静かであることがわかった。このことが比較的緩和したように見える銀河団に共通することなのか、他の銀河団では違う様相を見せるのか、この点からもXRISMの観測が待たれる。

図3

図3 ペルセウス座銀河団中心から約100kpc内の銀河団ガスの視線方向のガスの運動速度(km s-1)を、Chandra衛星による輝度分布の等高線に重ねてある。

共鳴散乱

鉄のHe-likeイオンの輝線群を分解することで何がわかったのかを述べる。最も高いエネルギー(6585 eV、赤方偏移を戻すと6700 . 4 eV)に対応するのは許容遷移(共鳴線を放出)であるが、ここで出る光子は銀河団中心では散乱(正しくは鉄イオンによる吸収と再放出)に対する光学的厚さが2ほどになると考えられる。この場合、共鳴線だけが何度も散乱され空間的に広がって出てくるため、銀河団中心の狭い領域を観測すると共鳴線が弱くなることが期待される。一方、乱流が強い場合はドップラー効果のために共鳴散乱が生じにくくなるので、共鳴線強度は乱流の強さを判定することにもつながる。図2 のSXSのエネルギースペクトルでは共鳴散乱が有意に観測されていて、熱的放射の予想より共鳴線が30 %ほど弱いことがわかった。この情報は、先の200 km s-1以下という乱流の速さと矛盾がなく、鉄イオンの密度を視線方向の奥行きで積分した値を教える。鉄輝線の強度という密度の2乗に比例する観測量と組み合わせることで、銀河団プラズマの密度と奥行きを制限する独立な情報が与えられることになり、銀河団の構造を調べる上で貴重な結果と言える。

弱い輝線の検出

鉄族元素(クロム、マンガン、ニッケル)の存在量は、輝線が弱い(クロム、マンガン:等価幅が数eV)、あるいは20eVほど離れた鉄の輝線との分離が困難(ニッケル)といった理由で、これまで精度の良い測定が行われていなかった。「ひとみ」以前には、XMM-Newton衛星の観測から、これらの元素がいずれも太陽組成の1. 5 - 2倍高いという結果が報告されていた。こうした鉄族元素は、主にIa型超新星、すなわち白色矮星が関与する爆発によって作られたと考えられているが、その過程にはいくつかの説があり決着がついていない。鉄族元素の存在量はその過程を判定する情報である。図4に示すように、「ひとみ」SXSは存在量を高い信頼度で決定し、3つの元素全てが太陽組成から30%以内の範囲であることを示した。ペルセウス座銀河団の中心部と我が銀河系とが実は似た環境にあることを示す新しく興味深い結果である。

図4

図4

図4 「ひとみ」SXSが観測したクロム、マンガン、ニッケルの輝線。

SXSの高分解能スペクトルは高温プラズマだけでなく電波銀河NGC1275についても新たな情報をもたらした。SXSによるエネルギースペクトルを詳しく調べると、図5に示すように6 . 4 keVすなわち中性に近い鉄の蛍光輝線が確認された。この輝線は約20 eVの等価幅があり、電波銀河の中心の巨大ブラックホールが放射する硬X線が周辺の物質にあたることで出ると考えられ、ブラックホールを取り巻く物質の立体角や距離を制限することができる。活動銀河核の巨大ブラックホールは、ブラックホールシャドウの観測で脚光を浴びているが、ガスがどのように供給され、銀河の進化にどう影響するのかは周りの物質からの反射を見なければならない。SXSの結果から、蛍光輝線を出す物質の速度幅は500-1,600km s-1の範囲(90 %信頼度)と決められた。この制限と両立しうるのは、ダストトーラスか核周円盤(circumnuclear disk)であり、より内側の広輝線領域[3]や、より外側の分子雲ではないと結論された。これは、トーラスの構造が平べったい可能性を示唆しており、活動銀河核の構造について新しい描像を提示する結果である。

図5

図5 ペルセウス座銀河団の中心銀河NGC1275 からの蛍光鉄輝線。エネルギーの高い方から順にK α 1, K α 2 の2 本の輝線が合わせてある。

さいごに

以上、筆者の独断により、「ひとみ」のもたらした成果のいくつかを駆け足で紹介した。高いエネルギー分解能や広いエネルギー範囲のX線観測が、他の方法では見ることのできない宇宙のダイナミカルな進化を教えることを理解していただければ幸いである。「ひとみ」計画の準備から科学成果のとりまとめまでは、多くの若手研究者のリードによって行われた。XRISMはX線分光サイエンスを本格的に花開かせるミッションになると期待しているが、約6年という遅れのため、必ずしも「ひとみ」を率いた若手の全員がXRISM計画に参加できなくなっている。「ひとみ」のプロジェクトサイエンティストとして申し訳ない思いであるが、「ひとみ」とその成果を生み出したみなさんの足跡は永遠に残される。「ひとみ」に力を注いだ、そしてXRISMに力を注いでいる全ての皆様に感謝を申し上げたい。

Hitomi collaboration による論文一覧

The quiescent intracluster medium in the core of the Perseus cluster: 2016, Nature 535, 117.
Hitomi Constraints on the 3.5 keV Line in the Perseus Galaxy Cluster: 2017, ApJ Letter 837, L15.
Solar abundance ratios of the iron-peak elements in the Perseus cluster: 2017, Nature 551,478.
Atmospheric gas dynamics in the Perseus cluster observed with Hitomi: 2018, PASJ 70, 9.
Measurements of resonant scattering in the Perseus Cluster core with Hitomi SXS: 2018, PASJ 70, 10.
Temperature structure in the Perseus cluster core observed with Hitomi: 2018, PASJ 70, 11.
Atomic data and spectral modeling constraints from high-resolution X-ray observations of the Perseus cluster with Hitomi: 2018, PASJ 70, 12.
Hitomi observation of radio galaxy NGC 1275: The first X-ray microcalorimeter spectroscopy of Fe-Kα line emission from an active galactic nucleus: 2018, PASJ 70, 13.
Search for thermal X-ray features from the Crab nebula with the Hitomi soft X-ray spec- trometer: 2018, PASJ 70, 14.
Hitomi X-ray studies of giant radio pulses from the Crab pulsar: 2018, PASJ 70, 15.
Hitomi observations of the LMC SNR N 132 D: Highly redshifted X-ray emission from iron ejecta: 2018, PASJ 70, 16.
Glimpse of the highly obscured HMXB IGR J16318-4848 with Hitomi: 2018, PASJ 70, 17
Hitomi X-ray observation of the pulsar wind nebula G21.5-0.9: 2018, PASJ 70, 38.
Detection of polarized gamma-ray emission from the Crab nebula with the Hitomi Soft Gamma-ray Detector: 2018, PASJ 70, 11

脚注

[1] 鉄原子は中性では26 個の電子を持っているが、温度が100万度を超えると熱運動が活発になり衝突電離されていく。鉄の電子が2個だけ残ったHe-likeイオンは、電子配置が安定なため1千万度から1億度の広い温度範囲で存在比が高い。

[2] He-likeイオンの基底状態(n=1, 1S0 )へのn=2からの遷移で、1P1からが許容遷移、3 P2 , 3 P1からが異重項間遷移(tripletからsingletへ)、3 S1からが禁制遷移で、放射される光子のエネルギーはこの順に低くなる。

[3] 活動銀河の中心核に近く、可視光や赤外線で数千km s-1の運動に相当する輝線幅を示す領域で、より外にひろがる狭輝線領域(数100 km s-1の輝線幅)と区別される。

【 ISASニュース 2019年9月号(No.462) 掲載】