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No.217 |
ISASニュース 1999.4 No.217 |
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ロケット研究発祥の頃糸川英夫ペンシル・ロケットの発射の前,1年間没頭していたのは「ハイパーソニック輸送機」のプランで,どうやら今年か来年から,政府の予算がついてナショナル・プロジェクトになりそうな気配である。 空気層を飛ぶ間は空気を全面的な敵,つまり「抵抗体」ととらえずに,空気の中のO2を頂戴し,かつ空気力を浮力(揚力)として使い,超高空と,超音速で飛んで空気層にリエントリーするところでハイパーソニック・グライダーでランディングするという計画で,大陸間を30分位で往復する「輸送機」である。「生産技術研究所」の1955年前後の月報にプランを書いた記録があるから,こっちが本命であった。 それが途中でペンシル・ロケットから,カッパ,ラムダ,ミューという人工衛星から,ハレー彗星をねらうロケットの方向に大きくそれたのは一つにかかって「環境」であろう。もう少し,かっこうつけていえば「マーケティング」の問題であったろう。 ペンシル・ロケットは全長23cm位の小さいロケットであったが,後のものには,エレクトロニクスやセンサーが内蔵されていて,高速飛翔体に必要なテクノロジーはすべて研究可能であった。「批判」をうけたのは東京の郊外で行った「発射実験」が大げさだったということだった。例の「5,4,3,2,1,0」というカウントダウンから危険防止のシステムが大げさだったということで,今だに忘れられない。「批判」するより「批判」される仕事をする人間の側に立ちたいというのが持ち前だったからこれは何としても仕方がない。 ロケットそのものは,ペンシル・ロケットよりもっと小さいものでも可能だったかも知れない。ペンシルでなくて「針ロケット」でもよかったかも知れない。しかし当時の手に入るテクノロジーがもつ「経済性」を考えると,費用対効果を考えて,「ペンシル・ロケット」のサイズが,optimum だったろう。だからシステムとして,直径1.4mのミューロケットとテクノロジーの原則は,共通したところが多い。ただまわりにいる人間,発射係,ランチャー係,計測係,通信係を担当する人間が,小さくなれなかったから,外見からみると,「大ゲサ」にならざるを得なかったのである。 ペンシル並みのミニアチュア人間を揃えれば「何をたかだか鉛筆位のロケットに大げさな」という批判は出なかったろう。その大ゲサがこの研究の最後までついてまわった。つまり敗戦からまだ10年しかたっていなかった日本国の中で「マスコミうけ」をネラッた「ショー」ととられたらしい。 といって,若し極秘裡にやったらどうだったろう。敗戦後の「反戦思想」が極端だった当時の世相からして,極めて「インケン」な軍事思想の復活としてもっとひどくやっつけられたであろう。 よくあのロケット研究の中で,一ばん難しかったのは何でしたか,という質問をうける。もっと一般的に「新しい研究」に最も難しいのは何ですか,ときかれることがある。答えはいつも一つ。「オカネ」である。 現在のような時代でも「新しい研究」にはオカネが集まらない。要は新しい研究の成果について的確な評価力を下せる「オカネの番人」が不在なのである。 「ロケット」研究を遂行する間の最大の難関は「予算」「研究費」の入手であった。政府組織として,現在のように「宇宙開発委員会」が出来,二つの宇宙技術研究所が出来れば,オカネのフローの回路は一応成り立つ。ペンシル・ロケットからミュー・ロケットに到る間にこういう組織はなかった。だから東京大学の学内も管轄官庁である文部省も大蔵省も日本学術会議も,すべて「アド・ホック」の組織であった。 若し日本で,科学技術の独創性とか,新しいテクノロジーをつくり直したい,とか考える人が今でもいるならば「新しい」研究用の「アド・ホック」組織の研究をやることをおすすめしたい。 ペンシル・ロケットの頃を考えて「懐しい」という気分にはなれない。いつも「新しい」「ペンシル・ロケット」を抱えてウロウロしている自分の姿を第三者として眺めるからである。ペンシル・ロケット当時の私は,今の私からすれば客観的にみえる。もっと他に手があったのでないか,と批判も出来る。しかし,いまもって「次なる」「ペンシル・ロケット」を抱えこんでウロウロしている自分白身は主観で動くより他に方法がないのである。 (宇宙空間観測30年記念随想集『軌跡』より抜粋) |
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