No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川先生の思い出

松尾弘毅  



 1962年春,当時東大生研の糸川研究室に大学院生として配属された。航空学科の就職説明会で生研グループの糸川,玉木,森先生のお話があり,その頃大変曖昧な状態で卒業を迎えようとしていた私が飛びついたというところである。確か上野で会議中の糸川先生に,その室外で面接を受けるという,如何にもそれらしい出会いであった。



 外部での公式な動きは別にして,内部ではこの年“人工衛星計画試案”の策定が進められていた。設問は“5年後にペイロード30kgの人工衛星を打ち上げるためのロケットは如何に”である。秋葉助教授の指導の下,長友先輩の驥尾に付して大いに実働した。性能評価に基づき各段ロケットの大きさ等基本諸元を決める,いわゆる初期設計である。月曜の午前中に会議が開かれることが多く,日曜から月曜の朝にかけては準備のため生研で暮らすことになった。当時すでに六本木は深夜の食事に苦労しないところだった。

 第1段の直径は約1.28mが適当との検討結果に対して,糸川先生の決断で余裕を見て1.4mと決められた。これが長く固体ロケットの直径を律することになったことを考えると,貴重な余裕であった。

 私が生研に居た2年間は,電算機の導入前夜から導入初期にかけてであった。この間OKITAC5090が導入され,3次元6自由度の計算プログラムが整備されて,それまで不可能であった軌道計算が正確に出来るようになった。ただ何としても演算速度が遅いので,10分程度の実飛行時間に対する計算に5〜6時間を要し,専有時間を確保するためにまたぞろ徹夜の連続となった。この話がどこからか先生のお耳に入り,“変な生活をしているそうですね。あなたの時間を金で買いましょう”ということで,高速演算機が導入されるまでのある期間,性能計算は外注されることになった。このように格好のよい科白は,これまではもちろん今後も云えそうにない。

 先生がお辞めになるまでの5年間謦咳に接した時間の総計は決して長くはないが,大変密度高く鼓舞されたものである。今あらためて先生の偉大さを考えている。

 内之浦での実験期間にメニエル氏病が発症したことがあった。初めてのことで何のことやら判らず宿で寝ていると先生がみかんを沢山持ってお見舞いに来られ,自分もそうだがカリウムの不足が原因らしいのでこれが効くということであった。先生の先見性,決断力,いずれの資質も受け継ぐことの出来なかった不肖の弟子の唯一の師匠譲りである。


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