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No.217 |
ISASニュース 1999.4 No.217 |
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糸川先生をお偲びして田中キミ『日本の国産ロケットの生みの親』・糸川英夫先生がが,2月21日早朝逝去されたとの訃報に,町内には驚きが走り,悲しいお知らせでございました。 内之浦町では,当時の久木元峻町長の提唱で,初七日が終わらないうちにと,2月26日糸川先生と交流のあった方々を中心に,町三役が集い,『糸川先生を偲ぶ集い』を持たせていただきました。増當可也町長が,「陸の孤島だった内之浦に光をあてて下さった恩人のご冥福をお祈りしたい」とのご挨拶に,一同黙祷を捧げ,糸川先生が初めて内之浦にいらした1960年以降の写真や,新聞のスクラップなど持ち寄り,先生の思い出を語り合いました。 1962年は雨が多く梅雨期とも重なり,加えて人夫の募集も思うにまかせぬまま,道路の第二期工事での私達婦人会のメンバーの奉仕活動を,慰問に来ていただいた折,満面に笑を湛えて励まして下さっているお写真に,全員お懐かしさで一杯になりました。また国有林調査測量班を始め,来賓へのお茶の接待,起工式の炊き出し,実験班の宿舎の斡旋,実験場のPXでのボランティア活動など,心から喜んでいただいたことや,1966年L-4S-1号機に始まった町郷杜高屋神社に寒波をついての早朝の成功祈願にも,失敗が相次ぎ,“風に弱い・軌道に甘い”など書きたてられ,わがごとのように悔しがった思い出。それでも遂に,1970年のL-4S-5号機の成功に地元の地名に因んで“おおすみ”と命名していただいた時のあの感激,祝砲を合図に小躍りしての旗行列。更に引続いての科学衛星“しんせい”の成功に,万歳を連呼しながらの“ちょうちん行列”等,当時のことが走馬灯のようにひらけてまいりました。
それにいたしましても,当時糸川先生は,道川での実験には限界があること,併せて内之浦は陸・海・空の条件を基本に,天・地・人三位一体の協力があれば敢えて平地でなくてもとのありがたいお言葉に,すっかり感動して,翌日早速,町の月例婦人会を開き,お話を伺うことにしました。そして,ロケットの実験は専ら学術研究であり,軍事用ではないとの熱の篭ったお話に,一同はご趣旨に賛同して協力の運びになりましたのに,今となりましては,凡てが先生をお偲びする縁となってしまいました。その上私自身86歳を数えましては,1912年お生まれの先生とのご縁の深さが身につまされ,感慨もひとしおでございます。 これからは,先生の築かれた路線の上に,宇宙科学の大きな華が,更に更にひらけてまいりましょう。どうぞ,見守っていて下さい。私達一同心から先生のご冥福をお祈りさせていただきます。 糸川先生!! お静かにおやすみ下さい。
合掌
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