糸川先生の遺業を偲んで
丸安隆和
東大第二工学部が生産技術研究所に転換するに当って,全所を挙げてのメインテーマとしてロケットの研究を取り上げることとなり,私にもその研究グループに加わるようにというお声がかかった。糸川先生の直々のお話でもあったので喜んで参画することにした。 今でこそ人工衛星と測量技術(あるいは広く土木技術)とは切り離すことができないものであることは広く認識されているが,私が参加させていただいた当時は単なる物好きとしか評価されなかったことを思い起こし,隔世の感を禁じ得ない。
国分寺の工場跡地でペンシル・ロケットの実験が始まったが,間もなく道川海岸で実射実験が行われることになって,先生からロケットを打ち上げる時の軌跡をトランシットで追跡し,地球観測年に所定の高度を確保するためのデータを収集するように,との依頼があった。実験班に加わって,後方にある高地を選び,トランシットを据え付け,打ち上げられたベビー・ロケットを追跡することになった。そのころ,アメリカで打ち上げられるロケット実験の写真を見ると,ロケットは真上に向かって悠々と大空に向かっている。しかし,道川のロケットは海の方向に向かって超速度で斜め上空に飛んでいく。アメリカと生研のロケットは燃料が異なるのだと教えられた。しかし,トランシットでロケットを追跡するとなると,望遠鏡の視野は約1°であるからロケットを一度見失うと再度望遠鏡の視野の中にロケットは戻ってこない。発射のカウントを聞きながら待機するときの緊張は容易ならざるものであった。
ロケット実験が進むに従って,実験場の移動が必要となった。候補地を内之浦とし,糸川先生,高木教授と我々は一足先に現地調査に向かった。一面,山ざさの生い茂った丘陵地,大隈半島特有の深く入り込んだ谷間,その間をえぐって痩せた尾根が幾條にも太平洋に断崖となって落ち込んでいる。長坪地区には電気さえも届いていなかった。糸川先生によれば,バン・アレン帯が落ち込んだ宇宙観測には最も有利な地域だそうで,宇宙観測には最適の場所であり,宙価(酎価?)の最も高い地域だということであった。地元の強力な支援のもとで大工事が進められ維持されていくことは異例であったが,これも糸川先生の威徳によるところが大きかった。
数々の印象深い思い出のあるロケット研究ではあったが,私にとって,得ることのできた一番大きいファクターは糸川先生の物の考え方,発想の進め方を直に感得できたことである。当時はまだ学問としてはっきり独立したものでなかった組織工学的な発想でロケット研究が進められ,ステディーに発展していく様子を,至近に見ることができたことは,その後学問を進めていく上で貴重な体験となった。
益々大型化するであろうロケットの打ち上げが予想される中で,後方支援の大切さを疎かにすることなく最初の一歩を築かれた糸川先生のご遺業を称えたい。
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