人工衛星計画
1960年代初めのK-8型の出現は,わが国に本格的な観測ロケットの時代を招来した。そして日本の観測ロケットは,ここ内之浦で,さらに高高度を求めて,大型化と性能向上を図ることになる。カッパ・ロケットはK-8型からK-9M型へと移行し,高度は350kmをクリアするようになった。
1960年ごろから,高度1000km以上の内側バン・アレン帯に到達する能力を持つロケットが望まれ,「ラムダ(L)計画」が作られた。そして外側バン・アレン帯を狙うロケットとして,高度1万km以上を展望する「ミュー(M)計画」が構想された。
1962年10月,糸川の設問に対する3人の弟子の解答が小さな冊子となった。題して『人工衛星計画試案』。この試案のロケットの直径は1.2m,第3段と第4段が球形ロケットだった。これが後のMロケットの叩き台となった。
ラムダの処女飛行は1963年のL-2-1号機であり,1964年7月のL-3H-1号機をもって一応当初の目的を達したと言える。その時には『人工衛星計画試案』はすでに存在したことになる。
その後この人工衛星計画は次第に周囲の反響を呼び,学術会議を中心とした討議の末に,Mロケットを用いる科学衛星計画が1965年に公表された。そしてすでにその前年,Mロケットによる人工衛星打上げの試験機として,3段式L-3Hの上に4段目を載せたL-4S型ロケットの計画が進められていた。
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