No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川君の思い出

高木 昇  



 糸川先生の思い出としては,誰にもあまり知られていない秋田県の道川時代が印象に残っている。ロケットの研究は1955年に東京国分寺で始められた。次いで同年ベビー・ロケットの実験が始まった。その実験場のことである。


ベビ−ロケットとともに

 1955年頃には海岸はすべて米国が占有しており,空いているところは佐渡島と男鹿半島の2カ所しかなかった。そこで,糸川君と二人で海上保安庁の船を出していただき,佐渡島を見に行った。当日は海が荒れて糸川君は船に酔ってしまった。そんな訳で佐渡島はとても機材を運搬することは考えられない。実験場としては落第であった。次いで男鹿半島に行ってみたがとても狭くて実験場として不向きであった。

 1956年ごろには佐渡島と男鹿半島の二つしか使えなかったということは,今では考えられないくらい米軍の力が大きかったのである。それから10年も経たない内に日本全周囲はすべて解放され,太平洋岸も日本海側も自由に使うことができるようになった。そこで我々は北海道から鹿児島まで探して,とうとう漁業とか船舶の少ない鹿児島の内之浦に決定した。

 さて,道川を選んだのは海岸で広く使えること,それから,町が近いので寝泊りに宿屋が使えることなどが理由だった。それから,色々なことを糸川君と相談して決めた。我々は,機械・電気・航空という分野の専門家の集まりである。これからの発射実験では,それぞれの分担した専門の所が故障して失敗を重ねてゆくことだろう。失敗箇所を分担した専門家は,当然故障原因は自分でよく分かる。だから反省はそれぞれの専門家がすべきであって,専門家以外の人が口出ししてはならない。我々は色々な専門家の集まりであり,決して専門以外のことで議論はしないこと,そういうことをお互いによく承知して戒めあったわけである。それから私と糸川君,つまり電気と電気以外の専門家が組になって実験主任を行うこと,例えば,高木・糸川,玉木・斉藤,森・野村のように実験主任の組み合わせが決まった。どうしても電気と電気以外の専門家を上のように決めることが実験を成功させるのによいと思ったのである。

 以上をもって糸川君の思い出を書いたが,遥かに彼の冥福をお祈りし,筆を置きます。


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