糸川先生の三つの課題
長友信人
私は大学院の5年間とその後2年近く学位論文が出来るまで糸川英夫先生にご指導いただいたが,その後も糸川先生に呼ばれていきなり問題を課せられるという手荒なご指導を受けてきた。
その最初は,私が学位論文を提出した1966年頃,「将来はロケットも原子力です。ここにも原子力関係の基本的な本をそろえたいので調べて下さい」という課題であった。私の研究はプラズマ・ロケットに関するもので,原子力を使う可能性は強かったので,早速,安藤良夫先生のおられた東大原子力工学科の図書室や洋書の丸善など熱心に歩き回って,1週間あまりで20冊ほどの本のリストを作り,駒場の正門を入って右の奥の建物にあった先生のお部屋におずおずと持参した。しかし,先生は私が心配する暇もない位素早くさっと目を通すと秘書の櫻井さんに,「これを全部買うようにして下さい」と命じてこの件は合格であった。ついでに原子力学会に入るようにと言われ,最初の年の会費まで出して頂いたが,これがきっかけで現在原子力委員長代理の藤家洋一氏と知り合い,棚次亘弘君が宇宙研に来ることになった。
二つ目は,1984年の暮れのことで,宇宙ステーションに日本が実験棟を一つ作ることになり世の中が動き始めた頃である。これには私も大いに貢献したつもりであったから気分は良く,意気軒昂であった。そこに六本木の組織工学研究所から「NASAの要人と話をしたいのでジョンソン・スペースセンターに行きたい。すぐ手配して下さい」と言う難題が飛び込んできた。私はSEPAC実験でマーシャル・センターとは深いつきあいが出来ていたが,ジョンソンはまだ自分の訪問許可を得るのに手間取る始末であったし,本来,糸川先生の言うような,年の暮れにいいだして年明けに行きたいと言う希望はまともな手続きでは不可能であった。ともかく,どうにでもなれという心境で,数少ない知り合いに片っ端から依頼のファックスや手紙を書きまくった。年が明けてしばらくして,糸川先生にお会いすると「行って来ました。あなたは信用があることが分かりました」というだけで,ジョンソンでいったい何があったかは一切説明がなく,信用とはどういうことか色々考えるが何のことか分からない。結局,信用はないよりはある方が良いのだろうと自分一人で及第点を付けたのである。
三つ目は,丸子町の病院へお見舞いに行ったときのことである。私は病床でうとうとされていた糸川先生を前にすっかり気が動転してしまったが,先生はふっと目を覚ましてはっきりと「たのむことがある」と呼びかけてこられたので,「それ来た」といつものように身構えた。しかし,そのあとは発音が聞き取りにくく周りの人たちに助けてもらって,何とか聞き取ったせりふは「アメリカ経済が・・」「オーストリアのハプスブルグ家の・・」というとんでもない話であった。病床の先生を見た途端に,誰かに会いに行けとか,会議に出てこいと言われればどこにでも行こうと覚悟はしていたが,これだけでは何も分からず途方に暮れた。ぼんやりしていると,糸川先生は「言っているのに分からないのか」とばかりベッドの手すりを叩いて怒ったが,やがて疲れて寝てしまわれた。数カ月後,病は小康をえてお会いできたがこの話は出ず,再び病床に伏された時はお見舞いに行ったが対話は出来ず,その1年後の今年2月に亡くなられた。先生の遺書にもこの件はなかったらしく,「ハプスブルグ家の誰か」からの連絡もない。
最後の課題が幻のように消えていくにつれて私は一つの重い人間の絆から解放されていったが,入れ代わりに偉大な師を失った悲しみと孤独感が襲ってきた。