No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川先生の掌で踊ってきた何十年

小田 稔  



 今日,欧米の科学者の熱い眼差しを受けるようになってきた日本の宇宙科学の進歩は20〜30年前には夢にも考える事もできなかったことだと思う。これももとはといえば多くの先達の努力にのっかっていることだが,さらにその源はと言えばいわゆる糸川ロケット,ペンシル・ロケットということになろうか。振り返ってみるとこれは大変なことだったのだと思う。

 1950年代の初期,MIT(マサチューセッツ工科大学)に居たことがある。その頃日本から送ってもらった新聞に糸川先生が打ち合わせかなにかでNASAを訪問された記事と写真が載っていた。それで日本もロケットをやることになるのかなあと,まさか後に自分が関わることになろうとは思わずにぼんやりと考えていたことを思い出す。

 1960年頃には私は東大原子核研究所で宇宙線の研究をしていた。カーボン年代測定法を逆に使って,大きな木の年輪に含まれるカーボン14を分析して年代の分かっている年輪から宇宙線強度の変動の歴史を探ろうと考えたことがある。年輪を最も多く含む樹木として屋久杉とカリフォルニアのセコイヤを薦められ,杉の採集の為に鹿児島の港から第○○折戸丸(といったと思う)という船にのって夜行で屋久島に渡ったものである。大隅半島の西側を錦江湾を南下しているときに,どこかこの辺に東大のロケットの基地をつくっているのだという話がでて,そこで糸川先生のお名前がでたものである。後で考えるとそれから一生のお付き合いが始まる宇宙研のみなさんはすでにそのころ内之浦で働いておられたのだと思う。

 まもなく私はまたMITX線天文に関わることになりニュー・メキシコのホワイト・サンズでロケット観測をはじめた。1966年,帰国して高木先生が所長をして居られた宇宙研に着任したのが,丁度糸川先生が研究所を去られる頃だった。事情も知らずになんとか残ってください,先生を頼りに来たのだからと,平尾さんと一緒に引き止めようと必死に口説いたものである。

 それから私としては宇宙研,内之浦,ロケット,衛星に首までどっぷりつかることになってしまった。(勿論そうなったことをいささかも後悔しているわけではない。念のため。)何年か前に,ペンシル40周年,おおすみ25周年記念ということで,糸川先生,松尾さんと三人で講演をさせて頂いたことがある。その時の先生のお話は,その話術と間の置き方が息もつかせぬ面白さで,もっと早く深く,教えを受けておけば良かったとつくづく思ったものだった。

 心からご冥福をお祈り申しあげます。


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