内之浦
糸川が日本海の狭さを意識し始めたのは1959年の初めごろであったいずれ日本のロケットは日本海のさしわたしをまたぐ…その目は太平洋に面した表日本に向けられた。
北海道,青森,茨城,和歌山,宮崎と調査し,どこも一長一短,糸川が鹿児島大隅半島の内之浦にやってきたのは,1960年10月24日だった。調査の後でここを発射場にしようと決心した後の糸川の動きは速かった。
1961年2月,生研の丸安隆和を中心として調査測量が開始された。未開の地における調査が難航した時に内之浦の婦人会の人たちがおはぎを差し入れてくれた有り難さは伝説となった。
1962年2月2日,日本で2番目のロケット発射場として,東京大学鹿児島宇宙空間観測所の起工式が挙行された。この日も婦人会は,起工式200名分の弁当づくりを依頼され大変な活躍ぶりであった。そして直径75mmのOT-75-1ロケットが南国の早春の空へ旅立った。
そして1963年12月9日,冬日うららかな計器センター台地において,開所式が挙行された。この建設工事にあたって,生研の丸安隆和教授とその配下のスタッフの活躍はめざましいものであった。そして地元の振興会や婦人会の面々は,薮払いの人夫集めや,お茶の接待などに大忙しであった。糸川はこの協力に涙が止まらなかったと述懐している。
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