No.217
1999.4

ISASニュース 1999.4 No.217 


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糸川英夫教授の思い出

岡野 澄  



 1957年7月〜58年12月を国際地球観測年(IGY)とし,世界64カ国が参加する一大国際協力事業が行われた。わが国も参加し,日本学術会議ではIGY特別委員会を設け計画を立案し,政府は勧告した。当時文部省の学術課長の職にあった私は学術会議の勧告に対する政府側の窓口となり,その処理に当っていた。私は測地学審議会を活用し「研究者による観測計画は学術会議が行い,これに基づく関係各機関の観測業務計画の連絡調整は測地学審議会がこれに当る」という基本方策を確立し,一方大蔵省と協議し,IGY予算は文部省に一括計上する異例の措置を講じ,全体的な整合性を確保し,事業の推進に努力していた。なお,日本の観測計画は,東経140度線を中心とする電波,電離層,極光,夜光,地磁気等地上からの観測に限られ,ロケットによる対流圏の観測と南極地域の観測は,手の届かぬものとして除外されていた。 ところがたまたま1955年1月初め,毎日新聞に「科学は作る」という掲載記事があり,そこに東京大学生産技術研究所糸川英夫教授の「ロケット旅客機」という一文があり,「8万km20分で太平洋横断」と書かれていた。私はそのユニークな発想に強い印象を受けた。それは糸川教授を中心とする「AVSA」なる研究を紹介したエッセイである。私は,その研究班の研究を進展させ,観測用ロケットとしてIGYの観測に利用できないかと考え,生研の星合所長に検討を依頼するとともに,糸川教授の来省を求め,説明を承り,かつ学術会議のIGY特別委員会総幹事永田武東大教授に紹介,協議を進めてもらった。生研では糸川教授の指導のもと発射実験場の選定,設営,試行錯誤のもとに遂に1958年6月,カッパ6型により高層大気の温度等を観測し,IGYに間に合った。


K-6 打上げの寄せ書き(1958.12.22)。ロケットの左下に
「雪空に河童一閃寒さかな 英夫」とある。      

 糸川教授は,才気活発,その五体はエネルギーで充ち充ちていた。およそ象牙の塔に立てこもる大学教授とは異なり,きわめて行動的で,目的達成のために有効と思われるあらゆる手段を総合的に把握し判断するその速さには感銘した。

 糸川教授は,「思うに“発祥”ということは,いつも“批判”を伴っている。」また,「ペンシルロケットの頃を考えて“懐かしい”という気分にはなれない。いつも新しいペンシルロケットを抱えてウロウロしている。」と記している。

 発射場を秋田県道川海岸に選定し,さらに鹿児島内之浦への移転,ラムダ・ロケットによる人工衛星計画の開始,ミュー・ロケット計画まですべて糸川教授の卓見と指導によるものである。常に未来を志向し創造力をもって,わが国のロケット工学を推進した大きな功績に改めて深く敬意を捧げ,惜別する。


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