第1章 日本の宇宙開発のはじまり

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百万の味方

糸川からの協力依頼を受けた富士精密KKの戸田康明。固体燃料の研究で名高い日本油脂KKの村田勉に会うべく、1954年(昭和29年)2月6日、知多半島の武豊を訪れた。会って事情を話すと、村田は即座に賛成し「全面的に協力する」と約束してくれた。

当日の話し合いでは、すぐに提供できる推薬は、近距離から敵の戦車や飛行機を攻撃するロケット弾用に用いた無煙火薬で、直径9.5mm、内径2mmという中空円筒のマカロニ状のもの。長さが123mmであった。戸田は、いかにも小さいなという感じを持ったが、とにかく帰って糸川と相談しようと決心し、手持ちのカバンに数十本入れて帰京した。東京に帰ってAVSAグループにこのマカロニを見せた。

太平洋横断という志の大きさに比べて、この「マカロニ」の小ささはどうだ。メンバーは言葉もなかった。糸川が沈黙を破った。

当時の新聞記事(毎日新聞)

当時の新聞記事(1955年1月3日付毎日新聞)

──いいじゃないですか。費用も少なくて済むし、数多くの実験ができる。大きさにこだわっている場合ではないでしょう。すぐに実験を開始しましょう。──(糸川)

反論する人もいた。

──でも、これじゃあ、どうやって観測機器を積むんですか。

反論を予想していたかのように糸川は畳み掛けた。

──高度100km近くまで飛ばすものを作るには、さまざまなデータが必要です。データを取るには何度も飛ばさなければならない。毎回大きなものを作って飛ばせば、コストがかさみます。このちっぽけな固体燃料に合わせて小さなロケットを作るしか、当面打つ手はありませんよ。──(糸川)

糸川の即決。こうして東京大学のロケット開発は、1本5,000円の固体燃料を主体として歩むこととなった。

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