千葉のペンシル
国分寺の後、1955年の6月ごろからは、千葉の生研にあった長さ50mの船舶用実験水槽を改造したピットで、長さ300mmのもの(ペンシル300)、2段式のペンシル、無尾翼のペンシルなどを繰り返し水平発射して経験を積んだ。
段を重ねるのをどういうメカニズムでやろうかという話については、当時エレクトロニクスは衝撃的な加速度があるところでは信頼性はほとんどなかったので、メカニカルな方法でやった。このときに事件が起きた。
2段ペンシルだから、メインロケットとブースターロケットがある。何しろ小さなロケットで2段ロケットを作ったので、ブースターが着火してから10分の何秒かの後にメインが着火するように設計して、そのための電源用電池も特別なものを作った。
その配線の担当者がミスをしたらしい。垣見がまずメインだけランチャに入れて後ろのブースターの方を持って押し込もうとしたところ、本来ブースターから順番に点火しなければならないのに、メインロケットが先に点火してしまったのである。もしこのとき垣見がメインロケットを持っていたら、その尾翼で手の指全部をやられていたであろう。ブースター部分に持ち替えたから助かった。
ただし持っていた両方の手の皮膚に燃料の燃焼粒が全部食い込んでしまった。翌日荻窪病院に行って、全部メスで取ってもらった。完全に治癒するまで1ヵ月かかったように垣見は記憶している。
そのような危なっかしい2段点火方式はやめ、導火線の長さを適当にとって2段目に火を付ける時間を稼ぐという方式を、しばらくの間使った。そのような技術的なことを少しずつ学んだ意味も、ペンシルロケットにはあるわけである。
──ペンシルロケットの評価というものはいろいろな側面がありますけど、何といっても開発体制を作り上げたという意義が一番大きかったでしょう。もう一つは、ペンシルロケットの始まりは宇宙観測でも何でもなかったことです。航空研究が中断して再開した時期、今度は「宇宙も入れた形で考えていこう」ということを糸川先生が言いだし、ロケットに着目されて研究班を作ったのです。もともとエンジニアリングという立場でプロジェクトが立ち上がってきた、という話なのです。──(秋葉鐐二郎)