第1章 日本の宇宙開発のはじまり

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輝かしい始まり

AVSA研究会は、「まずは勉強会」というわけで、4月16日まで何回か輪講形式の集まりを開いた。この研究会での議論から浮かび上がってきたのが、大気界面飛行(aeropause flight)であった。

飛行機は成層圏飛行を行っているが、成層圏の上層である高度20~30kmの大気界面ならば超音速で飛んでも空気との摩擦による温度上昇をともなわず、また気象条件もよく、安全に飛行ができる。たとえば東京~サンフランシスコ間などは4時間くらいで飛行できる。これが世にいう「糸川の高速飛翔体構想」である。

1954年にAVSA研究班は研究費60万円を受け、高速衝撃風洞の建設とロケット・テレメータ装置の研究をめざして、その活動の第一歩を踏み出した。それとは別に文部省から科学研究補助金40万円と通産省から富士精密(現日産自動車KK)に工業試験研究費230万円が下された。通産省の補助金は、それと同額を会社側も出すことが前提になっていたため、それを合わせると560万円の年間費用となった。

多くの小型ロケットが試作され、工場で燃焼試験が行われた。その中から生まれたのが、戸田が村田のもとから持ち帰ったマカロニ状推薬の大きさに合わせて製作された、直径1.8cm、長さ23cm、重さ200gのペンシルロケットである。思えば貴童な虎の子であった。

ペンシルロケットと糸川

ペンシルロケットと糸川

ペンシルロケット用の推薬としては、上記のいわゆるダブルベース(無煙火薬)が用いられた。ニトログリセリンとニトロセルロースを主成分とし、それに安定剤や硬化剤を適当に混入し、かきまぜこねまわして餅のようにしたものを圧伸機にかけて押し出す方式のものである。

村田は、ダブルベースの設計と製造には習熟しており、新たに朝鮮戦争に使ったバズーカ砲用の火薬を参考にしたが、その組成中の過塩素酸カリウムが鋭敏すぎるので含有量を減らし、さらに火薬の帯電防止のためにグラファイトを練り込んだ。したがってバズーカ砲用のものは飴色だったが、ペンシルの推薬は黒色となった。

ノーズコーンとしては、ストレートのもの、丸いもの、円錐形のものが作られ、尾翼も三角形や矩形のものなどを試し、捩り角の大きさによるスピンの変化を見たりした。富士精密の荻窪工場内にテストスタンドと計測装置を作って燃焼実験がつづけられた。

しかしこの間に、ペンシルに専念していたAVSA研究班を思いもかけない運命が待ち受けていた。

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