第1章 日本の宇宙開発のはじまり

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カッパ・ロケットのスタート

道川出動風景

当時生研のグループが知っている限りでは、高度100kmをクリアできる観測ロケットとしては、アメリカがV-2(のコピー)、バイキング、エアロビーの3種を保有し、フランスにはベロニークがあった。これらはいずれも液体燃料の単段式ロケットだったので、東大グループが固体燃料ロケットで同じ程度の高度に挑戦することには、多くの批判があった。

カッパ・ロケットの開発は、この疑いの眼を嘲笑うほどの快いぺ一スで進んだわけではないけれども、大方の批判が「外国に例がないから日本では無理」という自主性のない趣きのものだったから、この手の批判に糸川が猛然と立ち向かったのは当然である。「常識」に立ち向かうのが、この人の真骨頂なのである。

1955年(昭和30年)の10月からは、より大きなカッパロケットの打上げを実行するために、道川海岸に沿って500mほど進んだ勝手川の北が新たに選定された。ここで記念すべき名機カッパが育つわけだが、何しろ今から40年も前のこと、ロケットの実験場への運搬は馬車に頼る、アンテナは手動のもの、作業の監督は砂浜に設けられた青空コントロール・センターで行うといった風情であった。糸川英夫は自ら陣頭指揮のため、ペンシル300のときと同様に、このテント内の「日本最初のコントロール・センター」に座り、各班の作業が終わるたびに、目の前の裸電球が一つずつ点灯する仕掛けを作った。全部の班の準備が整うと、いちばん端のひときわ大きな電球が点き、糸川の「5、4、3、2、1、ゼロ」という秒読みに合わせて、隣の女性が開閉器をガチャンと下ろしてロケット発射という次第であった。背後には大勢のギャラリー。

このように、草創期のロケット開発はまことに情緒深い手作りの趣きを以て進められた。現在この道川実験跡には、岩城町(現在の由利本荘市の一部)の人々が建ててくれた「日本ロケット発祥記念之碑が、冷え冷えとした潮風に吹かれてたたずんでいる。

日本油脂の武豊工場にあった燃料の押し出し機械で最大のものは直径11cmのマカロニ状のもので、これをもとにして設計されたのが、当時「K-128J」と呼ばれていたエンジンを備えたK(カッパ)-1型ロケットだった。実験は1956年2月から開始された。糸川の指示は一言「桜の花の咲くころに飛ばしましょう」であった。考えてみれば、すでにlGYは翌年に迫っていたのである。

K-128Jはいわゆる「全面燃焼」という燃焼方式で、高温の燃焼ガスがロケットチャンバーの金属に直接に触れて、チャンバーが溶けてしまうという難題が発生した。燃やすたびにチャンバーが溶けるという悲劇に敢然と立ち向かった技術陣は、約30種類に及ぶ各種の実験を行い、その中でロケットチャンバーの内面にアブレーションを施し、ついに良好な結果を得た。

チャンバーの内面にグラスファイバー、酸化クロム、水ガラスを混ぜて塗り、これに高温ガスが触れると、自らは発泡してガスを噴出するとともに、結晶水を出してチャンバーを冷却するのである。アメリカに先んじてこのアブレーションに成功した喜びの日は、1956年6月24日、桜は散りサクランボの実る季節を迎えていた。戸田康明は嬉しくてアメリカにいる糸川に電報を打って、喜びを分かち合った。

K-1型の初飛翔は、この年の9月、道川で行われた。

秋田ロケット実験場全景(後期)

打ち合わせ風景

打ち合わせ風景

カッパ1型ロケット

管制卓(屋外)

屋外の管制卓

道川の記念碑

秋田県道川海岸の日本ロケット発祥記念之碑

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