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荻窪のペンシル

現在の荻窪工場跡地(桃井原っぱ広場)

荻窪工場跡地の「ロケット発祥の地」記念碑 写真提供:株式会社IHIエアロスペース

荻窪工場跡地の「ロケット発祥の地」記念碑
写真提供:株式会社IHIエアロスペース

初めてロケットに取り組む富士精密の荻窪工場では、大変な苦労が展開された。何しろ

──ロケットが空を飛んでいく飛翔体のことだと気付いたのは、糸川先生が来てから2日目のこと。それまでは、何で私が女性の飾り物(ロケット)をやらされるのかと思っていました。──(垣見恒男)

という状況だったのだから、その「ゼロから始めた勇気」には、まったく頭の下がる思いである。

ロケットの燃え方や性能を調べるには、まず内部の圧力や推進力を測らなくてはならない。荻窪の工場の中にテストスタンドを作るのだが、いつ爆発するか分からない。穴を掘って人間が入れるくらいの地下にベトンで実験用の燃焼室を作った。その規模も工夫も手探りの連続であった。

ちょうどそのころ朗報が飛び込んできた。日本油脂の武豊工場の倉庫に、ペンシルの推進薬よりもっと大きい65mmと110mmの押出機が眠っていたというのである。

太平洋戦争たけなわの1942年、米軍は、スペイン統治時代から外敵を阻止するための要塞が設置されていたフィリピンのコレヒドール島に、地下発電所を持ち坑道には電車の走る本格的地下要塞を建設した。当時やや旧式ではあったものの、沿岸砲台23、要塞守備隊1万3,000の兵力を有していたという。4月14日、日本軍はその南からコレヒドール要塞へ砲撃を開始した。太平洋戦争初期のこのコレヒドール攻撃に、当時「噴進弾」と呼ばれるロケット兵器も使われた。その一部が廃棄されないで残っていたらしい。

富士精密では、荻窪の一部に地下式テストスタンドを作り、1954年のうちに65mmというチャンバー径をもとにしたエンジンの地上燃焼実験も行った。後のベビーである。

初めのころは意外に推進力が強く、そのために振動が起きて隣の工場にある旋盤が揺れてしまい、「削っているものが駄目になってしまうから、荻窪でそんなことをやってはいけない。出て行ってくれ」と言われた。

ペンシルを設計した垣見の苦労話を紹介しよう。

──ペンシルの設計は、私がやりました。というのは、そんな金にならないことに会社が人材をくれないのです。だから、私一人だけでした。設計の基本である熱計算も全部自分でやりました。しかも、今のような電卓ではなく、手回しのタイガー計算機です。これは肉体労働で、例えば掛け算の2×5のときは2を5回、回さなければならないので、大変な作業なのです。

──戦争に負けて、中島飛行機には航空機用の材料がそのまま残っていました。材料倉庫に行くと、ジュラルミンや鉄材料などいろいろあり、特にジュラルミンがたくさんありました。その中に直径30mmぐらいのジュラルミンの丸棒がありました。その名称を見ると「チ-201」となっていました。「チ」というのは中島の戦争中の規格で、ジュラルミンのことを「チ」といっていたのです。「チ-201という材料があって、これはロケットの材料に使えそうだ」と糸川先生に話をしたら、「ジュラルミンなんてロケットの燃焼熱で溶けちゃうよ」と言われました。しかし熱伝達を計算すると、どうもそれほどの温度にはなりません。

──まず、燃料が燃えるスピードを実験で出さないといけません。もらったデータから考えてたぶんこのぐらいで燃えるから、そうするとどれぐらいのガスが発生するか、それによってどのくらいの圧力に上がるかというのを計算して、実験装置を作りました。

──その装置でまず1本燃やして、無事に燃えました。次は2本燃やしてみる、次に3本燃やしてみる、とやっていったわけです。4本無事に燃えたところで、ジャンプして8本入れて燃やしました。荻窪の構内にタコツボを掘ってそこに置いて、上に向けて燃やしていたのです。8本目になったときに、大きな音がして何かが上に上がっていきました。

何が上がったか、すぐには分からなかったのですが、ひょっとタコツボの中を見ると、ロケットのノズルがないのです。あれと思ったら、「ダーン」と落ちてきました。グラウンドは硬いところですが、そこに1mぐらいめり込んでいました。どうもノズルが落ちたらしい、と掘り起こしてみたら本当にノズルでした。

いろいろ調べたら、燃焼速度のデータが間違っていました。そのためにガスの発生量がめちゃくちゃに多くて、内圧が上がってボルトにかかる力がうんと増えてしまい、ボルトが切れてしまったのです。計算によれば、本来8本ぐらいで強力なボルトが切れるわけがないという先入観がありましたので、判断を誤った次第です。──(垣見)

その後プリンス自動車、日産自動車、アイ・エイチ・アイ・エアロスペースと変遷を重ねたが、1998年5月まで、この荻窪工場で日本の主力ロケットの生産が行われた。現在工場の跡地には日産自動車宇宙航空事業部のOB会が中心となり作成した「ロケット発祥の地」記念碑が建てられている。

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