第1章 日本の宇宙開発のはじまり

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ミシシッピ河の水先案内

ベビーTの1号機の打上げを翌目に控えた9月16日、明星電気(株)の倉茂周芳が、宿舎の曙荘で実験班員に言い聞かせている。「いいか、みんな。もし我々の不覚で実験が失敗したら、実験主任の高木教授の前で両手をついて、この話をして謝るんだぞ。」

その話というのは、次のようなものである。

──ミシシッピ河のある渡し船の業者が有能な水先案内人を募集した際、幾人かの応募があったが、第一の応募者は、質問に答えて、自分は長年ミシシッピ河で船を操ってきたが、まだ一度も失敗したことがないから、ぜひ私を雇ってくれと胸を張った。これに対して第二の応募者は、儂も長年ミシシッピ河の船頭をやってきた、と前置きした上で、次のように話をつづけた。「いやもう数え切れねえほど失敗をやらかして、何度も命拾いをしてきましただ。そんでミシシッピ河についちゃあ、どこに浅瀬があり、どの辺が難所だちゅうことは、たいてい知っとるつもりじゃ」と。主人はハタと膝を打って、お前は一番信頼のできる水先案内だ、私の求めていたのはお前だ、と言って採用したという。──

当時の宿舎の一つ鳥海荘

当時の宿舎の一つ鳥海荘

事務側の責任者であった下村潤二朗は、この倉茂を「人事を尽くして天命を待つの精神と、実験心理をよく洞察してこれをリードした名人芸」と絶賛している。

またこんな話もある。道川海岸の砂浜で石を集めることが、誰が始めたのかみんなの間にひろまった。風浪と風砂で角がとれ、石相を露わにした石は小粒な水成岩で、この石が当時の六本木・生研の机の上や実験台の脇を飾ることがままあった。

「これはマチス張りですよ」──助教授(当時)の野村民也が差し出した石を見て、みんなは息を呑んだ。クリーム色の滑らかな表面に、「まるで火星の運河図を描いたように、海藻様のものが細い不規則線に象眼された美的なものであった」(下村)。

いつの時代も、ロケット実験の合間の無柳は、このように微笑ましく埋められていく。

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