第3章 ラムダの苦悩と栄光

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栄光のラムダ

そして待ちに待った1970年2月11日、内之浦の紺碧の空に、L-4S型5号機が紅蓮の炎を吐きながら飛び立っていった。第1段、第2段は、標準発射角64度に対して62度相当の軌道に沿って飛翔、第3段においてやや低めになり61度相当の軌道となった。姿勢制御装置の作動は完全で、機体はジャイロ基準角に対して偏差が認められない程度に整定された。最終段点火してコマンドは、発射後5分3秒に送信され、その100秒後に点火、ここに衛星軌道が成立した。日本で最初の人工衛星が誕生したのである。最終軌道の遠地点は5,150km、近地点は335kmであった。

地球をひとまわりした衛星から送られた電波を内之浦で受信した時、齋藤成文はコントロールセンタの野村に「野村くん、おめでとう。よかったね!」と、指令電話を通じて上ずった声をかけた。

この日は建国記念日で、新聞は翌日の夕刊まで休刊。ニュースは打上げ状況を中継放映したNHKの独壇場になった。口惜しがった新聞は「新聞休刊日に打ち上げたのは、NHKと東大の仕組んだ陰諜ではないか」と嫌味を言った。

記者発表で玉木章夫は、内之浦の日本晴れの空を見上げながら、こぼれんばかりの笑顔で述べた。

──打上げ地に因んで「おおすみ」と命名します。今日は日本晴れ。‘澄’にも通ずるし、ローマ字の頭文字‘O’で非常に小さいという感じが出るので。オーとエスの間にエイチを入れてください。Ohsumiですね。──

田中キミは思わず「先生、有難うございます」と叫んだ。このことはそこに居合わせた人々の鮮やかな記憶として残っている。席上、打上げ成功への感想を聞かれた齋藤成文は、「中学校の入学試験に合格したような気持ちです」と答えた。

南日本新聞社の白橋誠一記者は、プレスの効いたワイシャツを着、ネクタイをきっちりと締め、背広姿でこの日の記者会見に臨んだ。彼は「衛星が回る時の会見は、私にとって最大のセレモニーである。だから、その時は」と心に決め、過去四回の打上げの時も、陽の目を見なかったがスーツケースの中に忍ばせていた背広であった。

長い歳月の報道が報われた実感を、彼は後にこう記している。

──私にとっては、「わが青春のウチノウラ、おおすみ」であり続ける。──

コントロールセンター

コントロールセンター

日本初の人工衛星が打ちあがった日

L-4S-5号機による日本初の人工衛星打上げ

整備風景

L-4S-5号機整備風景

日の丸の小旗を両手に待機していた町の人たちは、祝砲を合図に小躍りして旗行列に出かけ、夜を徹して喜びに湧いた。

こうして振り返ってみると、実にいろいろな予期せぬことが起きたものである。この間そうした失敗のひとつひとつを克服するために、多くの涙ぐましい努カが続けられた。しかし後の輝かしい日本の宇宙開発の基礎は、この最も苦しい時期の忍耐にあったような気がする。苦難に耐え、難しい障害をみんなで乗り越えていく過程で、ロケット・チームの団結が固まり、日本の宇宙時代を築くための貴重な戦力が出来上がったのだった。「失敗は成功よりも尊い」のである。

野村民也実験主任の総括からの引用。

──幾多の曲折を経たL-4Sであったが、問題の所在を明らかにし、その解決の途を切り開いていったことで、確固たるロケットの技術を育てる土台を築いたものということができよう。単に初の人工衛星を産んだということではなく、多くの貴重な知識と経験を残した実験として記憶されるべきものと思う。──

この最初の衛星を生むための苦しい時代に、内之浦のある鹿児島県大隅半島の人々は、東大グループにつねに暖かい支持と熱い激励を送り続けた。これらの人々は、日本の宇宙開発の恩人として長く人々の心に残り続けることだろう。

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