第3章 ラムダの苦悩と栄光

カテゴリーメニュー

『人工衛星計画試案』

1962年の10月、東京・六本木の生産技術研究所の一室で3人の男が真剣な議論を展開していた。助教授の秋葉鐐二郎、大学院生の長友信人・松尾弘毅である。3人の前には、コピーをして綴じたばかりの小冊子がおかれている。表紙に書かれている表題は『人工衛星計画試案』と読める。3人のボスである糸川英夫教授からの「5年後にペイロード30kgの人工衛星を打ち上げるためのロケットは如何に?」という設問に対して、7月から夏の暑い盛りに突貫作業を行い、苦労をしてまとめ上げたものである。当時は手回し計算機を電動化した程度の計算機しかなかった。

この試案のロケットの直径は1.2m、第3段と第4段が球形ロケットだった。これが後のMロケットの叩き台となった。

これより先、1960年ごろから、高度1,000km以上の内側バン・アレン帯に到達する能力を持つロケットが望まれ、「ラムダ(L)計画」が作られた。そして外側バン・アレン帯を狙うロケットとして、高度1万km以上を展望する「ミュー(M)計画」が構想された。

ラムダの処女飛行は1963年のL-2型1号機であり、1964年7月のL-3H型1号機をもって一応当初の目的を達したと言える。その時には『人工衛星計画試案』はすでに存在したことになる。その後この人工衛星計画は次第に周囲の反響を呼び、学術会議を中心とした討議の末に、Mロケットを用いる科学衛星計画が1965年に公表された。そしてすでにその前年、Mロケットによる人工衛星打上げの試験機として、3段式L-3Hの上に4段目を載せたL-4S型ロケットの計画が進められていった。

読みかけのページとして記録する

「読みかけのページとして記録する」について