第3章 ラムダの苦悩と栄光

カテゴリーメニュー

鹿児島方式

そこで科学技術庁は、「各省連絡会(種子島周辺漁業対策協議会)」を作り、文部省や防衛施設庁の関係者とともに対策を練り、事務次官や長官も現地へ足を運んだが、吊し上げを食うばかりで、にっちもさっちも行かなかった。

そこで自民党の宇宙開発特別委員会の要請を受けた鹿児島県出身の山中貞則代議士の登場となる。彼は宮崎に出かけて精力的な説得活動を展開し、ついに絶対反対闘争を条件闘争にまで沈静化することに成功したのであった。つまり必要な補償措置を取れ、ということである。それは世に「鹿児島方式」と呼ばれている。

それまで各地でさまざまな紛争があったが、その補償なるものは金を払っても末端まで行くと消えてしまい、末端では「手拭1本」になってしまう。そういう補償では、国のためにもならないし、漁民のためにもならないので、いわゆる「個人補償」というものではなく、漁業組合ごとに、岸壁を修理するとか倉庫を建てるとかの「施設投資」をして補償に変えようということになった。

この後でいささか紆余曲折があったが、ともかくこの鹿児島方式を基本として、1968年8月20日、総理大臣官邸において、文部省・科学技術庁・防衛庁各大臣と鹿児島・宮崎など各県漁連との間で調印式が行われた。

この間、1967年4月半ばから1年半後の1968年9月上旬まで、内之浦・種子島のロケット打上げは、すべて停止されていたのである。

1967年には、宇宙開発審議会がいわゆる「3本柱」の体制づくりの方針を打ち出した。すなわち、

(1)国家的な方針、計画を決める宇宙開発委員会
(2)実用衛星の開発は宇宙開発事業団
(3)宇宙開発行政は宇宙開発局

である。このうち宇宙開発委員会と宇宙開発事業団は1969年に創設されたが、3つ目の宇宙開発局だけは実現していない。

読みかけのページとして記録する

「読みかけのページとして記録する」について