第3章 ラムダの苦悩と栄光

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宇宙・漁業問題の発端

1957年10月にソ連が世界最初の人工衛星スプートニクを打ち上げ、つづいてアメリカが翌年1月にエクスプローラーを軌道に送ると、わが国でも宇宙開発に対する関心が高まっていった。

1960年5月、総理大臣の諮問機関として宇宙開発審議会ができ、その答申の意を受けて1964年7月、わが国の宇宙開発を推進する中核的な実施機関として、科学技術庁に「宇宙開発推進本部」が設けられた。

そして即座に新島でのロケット打上げが行われた。東大だけで行っていた日本の宇宙開発は、より大きな広がりを持ち始め、新たな社会問題としての展開を見せるようになってきた。しかしその後科学技術庁は、新島が狭すぎるというので種子島に発射場を建設することにしたが、新島の方では「ぜひ発射場を移転しないでくれ」というので、何度も科学技術庁への陳情を繰り返した。

科学技術庁が種子島に発射場を建設することを決意し、鹿児島県に話をして、最初のうちは大変スムーズに事が運んだ。ロケットの落ちる海域で漁業を営んでいる人々は、ロケット実験で多大の影響を受ける。その辺りで漁をしているのは、鹿児島だけではない。

──我々もあの辺で漁をしているのに、なぜ科学技術庁は鹿児島だけ挨拶に行くのか。

信義を重んじる漁業者としては腑に落ちない。宮崎の漁民たちはヤキモキしながら、事態の成り行きを見守っていた。

当時の科学技術庁長官は上原正吉だった。当時の長者番付に毎年登場していたあの上原正吉である。科学技術庁では、宮崎の野菜をコールドチェーンで船に積んで東京に運んでいた。そのことで、上原長官が宮崎県に挨拶に行ったまではよかったが、ロケットのことには一言も触れなかった。つまり、行かなければ何事もなかったかも知れないが、行ったにもかかわらず、一方の野菜のことばかり喋っていて、ロケットのことについて挨拶がない、というので、漁業組合は怒ったのである。

そのうちに種子島発射場開設の披露宴をやることになったが、宮崎県漁業連合会の人々が上京して「誠意があるなら披露宴をやめて誠意の証を示せ」と迫った。当時の科学技術庁研究調整局長だった高橋正春は「考慮しましょう」と答えたらしい。時の政務次官、始関以平も「そんな状況なら考えなくちゃいけないな」と答えたので、宮崎県漁連のメンバーは安心して帰路についた。

ところがその直後、始関と高橋が長官の有田喜一の所へ報告に行った時から、事は意外な展開を見せることになった。

有田は、「事務局がどうしてもやりたいというのを、政治的配慮からやめろ、と大臣が言うのなら話は分かるが、役人の分際で政治的判断をするのはけしからん」と言い張って聞かなかった。やむをえず高橋は宮崎県の東京事務所に「予定どおり開所式を行います」と連絡、そこから大阪辺りまで帰っていた車中の漁連関係者に電報で報せた。

電報を受けた宮崎県漁連の一行が激怒したことは言うまでもない。彼らは郷里に帰り、「絶対反対闘争」の方針を固めた。「絶対」というのは、どんな条件を出しても、ロケット実験は決して許さないということである。高橋は八方手を尽くしたが、紛争は拡がるばかり、そしてついに宮崎は、「科学技術庁だけではない、自衛隊の射爆も東大の内之浦のロケットも全部やめろ」と言い出した。

すべての発端は、小さな建て前の問題から発したのである。

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