第2章 内之浦の登場

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すわUFO!

道川での事故があったとはいえ、1960年代初めのK-8型の出現は、わが国に本格的な観測ロケットの時代を招来した。そして日本の観測ロケットは、ここ内之浦で、さらに高高度を求めて、大型化と性能向上を図ることになる。その努力によって、カッパロケットはK-8型からK-9M型へと移行し、高度は350kmをクリアするようになった。

カッパ・ロケットを使ったもので印象深かったのは、東京大学の中村純二が行った発光雲の実験である。彼は、1959年(昭和34年)に南極越冬隊員として昭和基地に滞在中、エクスプローラ3号が地球をドーナツ状に取り巻くヴァン・アレン放射帯を発見したとの無電に接した。それまで光や電波で遠くから窺うしかなかった超高層の現象を、ロケットがあれば直接観測することができることを知って、新しい時代の到来を感じた。

帰国後さっそく道川で始めたのが、有名な発光雲の実験である。当時上層の風を知るには発音弾法やチェフ法が行われていたが、いずれも間接測定で、各高度の気温を仮定したり、重力の影響を何らかの方法で除く必要があった。これに対し、アメリカのエドワーズらが開発したテルミット燃焼によるナトリウム発光雲の方法は、地上の2つ以上の観測点から同時撮影することにより、風向・風速の直接測定が可能であった。

道川で一定の基礎的観測を行った後、内之浦に来てからは、まずもって観測点を探すのが容易でなかった。しかし地元の暖かい協力があったとはいえ、悪路をものともせずジープで走り回った中村の根性は、「さすが山男」であった。

発光弾には火薬を利用する。取り扱いは慎重に行われたが、初期には火薬取扱室がなかったので、打上げ時のコンクリート・シェルターを介して露天で結線作業などを行い、雷雲が近付くと作業を一時中断したりした。また真夏の太陽に照りつけられて薬温が上がりすぎるというので、発射直前まで日覆いのシートを被せたりした。

K-8L型ロケットが上空に昇ると、ナトリウム(薄明時)やトリメチルアルミニウム(夜間)などが放出される。これを複数の観測点から追いかけて、風向・風速や大気の拡散係数、乱流のスケールなどを求めた。またバリウムの電離雲からは上空の電場や磁場を直接測定したりした。

発光雲は遠くからもよく見えた。ある時などは神戸上空を西に向かっていたパイロットが、時間とともに大きくなる発光雲を、自分の方に近づいてくるUFOと間違えて管制センターに通報するという事件が起きた。

──発光雲はこの世のものとも思われないほど美しい。白銀色の大輪の花が音もなく一瞬のうちに夜空に広がる。次の瞬間にはこれがワインレッドに変わり、徐々に姿を変えていく。──(川島隆)

人々はいつまでも空を見つづけるのであった。

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