第2章 内之浦の登場

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現地の期待

一面に山笹の生い茂った丘陵、南九州特有の深く入りこんだ谷がその間をえぐって、痩せた尾根が幾条も太平洋に断崖となって落ちている。尾根づたいに作られた道が急に下ると、長坪部落がある。

糸川が初めてここに姿を現したころには、ここにはまだ電灯もなく、何かの制度で事業の適用申請をしようとしている時期であった。

糸川の現地での活躍が始まった。長坪部落の人々に集まってもらい、これから始めようとしているロケット実験は学術研究であり、決して軍事用ではない、と力説して協力を要請したり、翌日の内之浦の月例婦人会でもロケットと宇宙についての講演を飛び入りで行ったりした。これは、当時の婦人会の田中キミ会長のアイディアであった。

町長の久木元は、その心情を次のように述べている。

──その間、絶え間なく私の胸を去来したものは何であったか。それは我が町の貧弱を極める現況と発射場の誘致、その相関関係のもたらす効果にあった。町民の利害を代表する者の思いが、それに終始したとしても、特に良心に恥ずべきこととは思わず、願いのすべては町の発展と浮揚にあった。通路にも事欠く曲がりくねった水田、水も通わぬ水路、ひと雨毎にミミズが這い出し泥水の出る水道、足の踏み場もない街中の墓地、舗装の1カ所もない道路、朽ち果てた診療所、ほんの2、3例に過ぎないが、その立ち遅れは目に余り、問題は山積していた。たとえ猛反対に遭遇しても町の発展と町民の福祉向上のためには強引に押し切った。選挙向けの迎合策を排し、大局的な結果の判断に待つ以外に改革の道はない時代であった。──

ともかくも内之浦町としての了解は、この糸川の電光石火の行動でほぼとりつけられたと見ていい。糸川は、鹿児島県当局の協力も、この直後に得ている。次は生研、ついで文部省、大蔵省が相手であった。

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