第2章 内之浦の登場

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糸川の根回し

その同じ4月。参議院議員の佐多忠隆(社会党)が内之浦にやってきた。役場の敷地内の青年研修館で講演をするためである。50人くらいの聴衆を前に佐多は、「内之浦のロケットは学術研究のためのもので、軍事目的に使われる心配はないから、社会党本部としては賛成」と弁じた。内之浦の一部にくすぶっていた不安の声は、これを境にピタリと沈静したそうである。

当時町会の議長をしていた上林房正信(のち町長)は、この日終日佐多につきあい、鹿児島まで同行したが、垂水港から鹿児島市のボサド桟橋へ渡る垂水丸の船上で眺めた真っ赤な夕陽が長く脳裏に焼き付いていたという。それはともかく、上林房としては、よくも忙しい佐多のような男が、『陸の孤島」と言われる内之浦くんだりまで来てくれたものだ、と思っていたが、実は佐多は、わざわざやって来たのであった。

『雷魚のかば焼き・佐多忠隆の歩んだ道』という追悼録によれば、1960年(昭和35年)11月に、糸川が佐多を訪ねており、ロケットの現状や内之浦のことなどを話しており、当時の佐多の秘書であった村山隆が、「糸川榑士のロケットは先ずこの部屋に撃ち込まれたと思った」と書いている。何という先を見通した根回しであろうか。糸川は、特に問題の起きそうな漁業連合会には、地元鹿児島はもちろん、宮崎・大分等にまで足を伸ばして事前に理解を求めていたのである。

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