第2章 内之浦の登場

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内之浦実験場の建設工事

1961年(昭和36年)4月、新実験場決定と同時に、各建物の位置・坪数・構造・整地面積、道路、水源池、観測機器の位置、建物内部の機構、借地などについて議論された。そして整地・道路・建物の計画を担当するKC(Kagoshima Construction)、実験場内の地上設備を担当するKE(Kagoshima Equipment)という二つの研究委員会が設けられ、それぞれ丸安教授、齋藤成文教授が責任者となって企画立案が進められた。

1961年度の第1期工事は、主としてロケットの発射点を中心とする周辺の団地造成とそこに至る道路の工事、そして給水工事が行われた。工事着工の際、地元婦人会の人々は、鍬やスコップを携えて、取りつけ道路の作業に参加した。つづく第2期工事(1962年度)としては、実験場の施設に付属する土木工事、第三団地(コントロールセンター、テレメータセンター)及び発射点から離れたレーダ基地とその道路の工事が計画されたが、ちょうど梅雨期に重なって工事は進捗せず、加えて人夫の募集も思いにまかせず、結局町内全域の婦人会のメンバーが再び順番に奉仕に行くことになった。はじめての慣れない作業奉仕に汗だくになりながらの御婦人方の奮闘に、糸川は目頭が熱くなったと述懐している。

そして1963年度(昭和38年度)に開始された第3期工事半ばの同年12月9日、冬日うららかな計器センター台地において、実験場の開所式が挙行された。出席者は約260名、東京大学の茅誠司の任期満了を数日後に控えた催しであった。この日内之浦に入った茅誠司を内之浦小学校の子供たちが、日の丸の小旗を打ち振って迎えた。「内之浦の子供たちは目がきれい」という茅の言葉が、人々の脳裏に残った。

そして開所後初のロケットが、12月11日14時に打ち上げられた。すでに開発の始まっていたラムダ・ロケットの2型2号機。発射上下角78度、時の池田首相、灘尾文部大臣から茅総長あてに長文の祝電が寄せられた。この建設工事にあたって、生研の丸安隆和教授とその配下のスタッフの活躍はめざましいものであった。

そして地元の振興会長をつとめる長坪清をはじめとする振興会の面々、田中キミ率いる婦人会の面々は、薮払いの人夫集めや、お茶の接待などに大忙しであった。

建設工事

内之浦実験場建設工事

テレメータ台地、後方に内之浦の町

テレメータ台地、後方に内之浦の町

宮原レーダー

宮原レーダセンター

KSC開所式

KSC開所式

ラムダ(現KS)台地

ラムダ(現KS)台地

L-2-2

L-2-2号機

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