第2章 内之浦の登場

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新しい実験場の起工式

1962年(昭和37年)2月2日、日本で2番目のロケット発射場として、東京大学鹿児島宇宙空間観測所(KSC)の起工式が、長坪の荒削りな台地に約200名の来賓を招き、約3,000人のギャラリーの見守る中で挙行された。糸川と下村が初めて内之浦を訪れてから16ヵ月目のことであった。すでに鹿児島県の好意に基づいて、1961年(昭和36年)に始まっていた幹線道路の切り開きと第一団地(現在のKSセンター)及び第二団地(計器センター)のブルドーザーによる整地がその年のうちに終了した。起工式はこの第二団地の上で行われた。

当時は内之浦に仕出し屋はない。この日も婦人会は、起工式200名分の弁当づくりを依頼され大変な活躍ぶりであった。由緒ある高屋神社の神官によって神事の儀式がなされた後、東大総長の茅誠司ほか数氏が鍬入れの儀、多数の関係者による玉串奉天、祝辞がつづいた。そして茅総長のフェニックス植樹の後で、直径75mmのOT-75-1ロケットが南国の早春の空へ旅立った。

この日、冬晴れで空気の澄んだ南国の空のもと、内之浦の町は横断幕・幟・アーチなどが溢れ、小・中学生による「ロケット」の人文字、漁船の満船飾、飛行機による訪問と花束の空中投下など、まさしく宇宙への発進基地にふさわしい三次元的な起工式となった。

翌日の新聞には、「陸の孤島内之浦、極東のケープカナベラルに変身」という見出しが躍った。起工式につづいて、内之浦町の庁舎で内之浦町宇宙空間観測協力会の発会式が行われ、さらに翌2月3日、鹿児島市内の野村証券ビルにおいて鹿児島県宇宙空間観測協力会が行われた。この2つの協力会は今日に至るまで、研究所と現地官公署・諸団体との意思疎通の機関として重要な役割を果たしつづけている。

ロケット実験を行う際には、研究所は実験計画を明らかにし情報を提供してさまざまな組織の了解を求め、協力を得ることが必要となる。空と海と実験場の保安問題だけをとってみても、すべて県や省庁の出先機関の出動や手配が不可欠であるし、漁業関係については漁協の協力がなければ実験はできない。ロケットや器材の輸送から現地作業員の雇用、実験班員の宿舎の問題に関する交渉に至るまで、県や町に相談をもちかけることが多いのである。このような具体的な実行を可能とする理解が、協力会という組織によって公認され、それでなくても暖かな思いやりに溢れた内之浦の人々の協力態勢を、より強力なものに仕上げることになったのであった。

KSC起工式鍬入れ

KSC起工式鍬入れ

計器センター・ラムダ台地x

計器センター・ラムダ台地

起工式を祝う内之浦町

起工式を祝う内之浦町

OT-75-1

OT-75ロケット1号機

初号機発射ボタンを押す茅総長

初号機発射ボタンを押す茅東京大学総長

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