メーカーの苦労
420φモータ地上燃焼実験集合写真
K-8型ロケット、ランチャーでの作業風景
K-8型ロケット
K-8型ロケットの飛翔
「東京大学のロケット」といっても、その成功のかげには、どんなに多くの官庁の人々やメーカー、さらにはジャーナリズム、一般の人々の力があったか、はかり知れない。
ペンシルに端を発した日本のロケット開発が軌道に乗り始めていたある日、プリンス自動車(のち日産)の技術者、垣見恒男は、同社のある経理担当に呼び出された。
「給料は全部払うから、君は明日から会社に来ないでくれ」というのである。入社後数年しかたっていなかった垣見は腰を抜かさんばかりに驚いた。よく事情を聞いてみると、ロケットの仕事は、やればやるほど赤字が増えるとのこと。数多くの実験は、採算を度外視して進められていたのである。
垣見は、これを聞いた時の気持ちを次のように語っている。
──当時の残業時間は1ヵ月に200時間を越えていました。ロケット開発は自分の人生、と信じて取り組んでいる私にとって、水をさされたような気持ちと、反省と反発が一層ロケットヘの情熱と愛着になったと思います。──
このような気持ちを、東京大学サイドから「有難い」と感謝するのは失礼というものであろう。まさにこれは「最高の同志」の言葉である。
1960年(昭和35年)9月には、K-8型ロケットが初めて高度200kmを越えた。電離層のF層に届くようになって、科学者たちは驚喜した。このK-8型は各種の宇宙観測を可能にし、電離層の中の昼夜のイオンの分布などを世界で初めて観測するなど、本格的な観測ロケットとして世界の注目を浴びた。
懸命に駆け足でくぐり抜けて来た草創の時期。こうして第3回IGYは、日本の字宙開発にとって忘れ得ぬ思い出を刻んだのだった。このころのほとばしるような情熱が珠玉の輝きを失わぬようにありたい。「初心忘るべからず」──世阿弥はいいことを言った。