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ペンシルの斜め発射

ペンシルランチャセット

ペンシルロケット準備

ペンシル打ち上げ

ペンシルロケット打ち上げ

こうした経緯で、ロケット発射の舞台は秋田県の道川海岸に移る。道川は1955年8月から1962年に至るまで、日本のロケット技術の温床であり続けた。

道川での歴史的な第1回実験は、ペンシル300の斜め発射であった。1955年8月6日。天候晴れ、風速5.7m。長さ2mのランチャ上に、全長30cm、尾翼ねじれ角2.5度のペンシル300がチョコンと載っている。発射上下角70度、実験主任は糸川英夫、総勢23名の実験班。13時45分、赤旗上げ。14時15分、花火上げ。

「総指揮」と書いた腕章を腕に巻いた糸川は、主任として実験場所上段に着席した。電球を10個ほどつけ、ロケット運搬終了、ランチャ装置終了など実験準備の進行に従って裸電球を一つずつ消していき、最後に発射準備完了となったとき、端にあるひときわ大きな電球が点灯する仕組みを考えたのも、糸川である。彼は「日本初のコントロールセンターです」と言って澄ましていた。

30秒前から糸川の秒読みが開始された。いつもより緊張した声。

「5、4、3、2、1、ゼロ!」…14時18分、発射!「あっ!」誰もが息をのんだ。ペンシルはランチャから砂場へ転げ落ち、砂浜をねずみ花火よろしくはい回ったのである。

──そのとき、実験する方は23人しかいませんでしたが、報道陣は70~80人来ていたと思います。報道陣に対する宣伝など、糸川先生は非常に上手でした。ランチャは池田教授の設計で、特殊な形をしていました。国分寺での水平発射はうまくいきました。ところが秋田での第1号機はロケットの支えを怠ったので、火を入れた途端に落ちて地面をはい回ってしまい、失敗でした。下にくぎを1本刺せば止まったので、それで飛ばしました。高度600mぐらいのところまで飛んで成功しました。──(戸田)

ロケット燃料に点火するには、その直前に小型のイグナイター(点火器)にまず点火し、そこから出る炎で主燃料に火を付ける。国分寺のように水平発射ではないので、ロケットがすべり落ちないようお尻にビニールテープの支えを張ってあったのだが、イグナイターが発火したとき、その小さな噴射でビニールテープが外れ、ロケットは打ち上がらず、「打ち下がった」のである。

もちろん急いでランチャ下部に鉄線のストッパーを取り付け、15時32分に再度挑戦。尾翼ねじれ角0度のペンシルが史上初めて、重力と空気抵抗の障害のただ中を、美しく細い四塩化チタンの白煙を残して夏の暑い空へ飛び立った。到達高度600m、水平距離700m。記念すべきペンシルの飛翔時間は16.8秒であった。

重さわずか230gというミニロケットの海面落下に備えて、400トンの巡視船が沖合に出動した。8月の熱い砂に実験班員のキャラバン靴は潜り込み、

──あたかも古代遺跡を掘りにきた探検隊のようでした。電話も引いてなかったし、動き回る足は自動車ではなく、自転車でした。ロケットを運ぶのだって、馬車ですからねえ。馬は自分が何を運んでいるのか、分からなかったでしょうねえ。大学の先生方がやる野外実験とはこういうものと、その質素さが今は懐かしいですねえ。──(下村潤二朗)

この日、糸川が夏の日の静謐を詠んだ。

  夏海の まばゆきをまへに
        初火矢を揚げむとすれば 波は寄る音

──私にとっては、道川でのペンシル発射が初めての実験です。ペンシルが飛んでいく様子は、普通のカメラでは撮れません。それをキャッチするためには、1秒間に2,000コマや4,000コマ撮れる高速度カメラでないと写りません。当時優秀な新聞記者が大勢来ましたけど、みんな写真は撮れていませんでした。それで、植村先生が高速度カメラで撮ったフィルムを私のところで現像しました。フィルムは35mあり、それを金だらいに入れて手で右から左へと攪拌しながら現像して、アルコールで乾かして、引き伸ばし機にかけて新聞記者に渡しました。──(安田良平)

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