中間赤外線波動追跡計算を用いた宇宙機搭載用イマージョンエシェル高分散分光器における波長分解能の評価

伊藤 哲司伊藤 哲司・名古屋大学(論文執筆時: 宇宙科学研究所 宇宙物理学研究系)

イマージョンエシェル回折格子は、小さなサイズで高感度の高分散分光が可能な分光素子であり、光赤外線天文学で、天体の高波長分解能分光観測に用いられます。しかし、一般に用いられているイマージョンエシェル回折格子の点光源に対する波長分解能の評価式では、光の波が、分光器入射スリットと有限の大きさを持つイマージョンエシェル回折格子の窓の2か所で回折される効果などが、考慮されていませんでした。本研究は、これらの要因を考慮した光の波の伝搬を追跡する計算を実現させ、中間赤外イマージョンエシェル分光器が持つ波長分解能を評価しました。その主な結果として、分光器入射スリットの存在は、望遠鏡収差の波長分解能への影響を低減することが分かりました。また、現実的な回折格子サイズでの場合に、スリット幅を変化させると、入射ビームのメインローブ全幅が透過するような、一見最適そうなスリット幅で、波長分解能が最小値となることが分かりました。これらの知見は、将来の高空間分解能中間赤外分光器やそれを含む宇宙望遠鏡の設計に役立つと期待されます。

研究概要

波長の数万分の一より小さい波長のずれを検出できるような高い波長分解能の分光観測を、波長10-20µm帯赤外線で行うことは、観測天文学の未踏領域であり、大きな科学的重要性を持ちます。例えば、望遠鏡で空間的に分解することが困難な原始惑星系円盤*1*2の位置を特定できます。H2Oガスは赤外線の分光スペクトル上に特徴的なピークを作ります。このピーク形状は、視線方向に運動している光源(H2Oガス)を観測するときに生じる光のドップラー効果を受けて変化します。このピーク形状を測定し、円盤のほとんどKeplerの法則に従う運動を含んだモデルと比較することで、スノーラインの位置が同定できます。これは現在の惑星形成モデルの重要な観測的検証です。

波長10-20µm帯全体を分光観測するためには、大気による吸収の影響を受けない宇宙望遠鏡から観測する必要があります。また、観測装置自体からの熱放射ノイズを避けるため、光学系を含む装置全体を極低温まで冷却する必要があります。そのため、分光装置の大きさには厳しい要求があります。

イマージョンエシェル回折格子は、高い回折次数の回折を用いる回折格子*3を、高い屈折率を持つ物質と接触させて用いることで、小さなサイズでも高波長分解能の分光が可能なよう工夫された分光素子です。そのため、波長10-20µm帯での高波長分解能分光装置の実現のためにも有望です。

図1
図1 計算に用いたイマージョンエシェル回折格子分光器のレイアウト。計算に用いた系では、検出器の位置とスリットの位置が同じ位置です。実際の設計では、入射スリット位置と射出光が重ならないよう、これらを分光方向と直交する方向にずらして設計します。しかし、この要素は波長分解能の評価に重要ではないため、本研究では捨象しています。

しかし、従来用いられているイマージョンエシェル回折格子の点光源に対する波長分解能(R=λ/Δλ, λは評価する波長、Δλは分解できる最小の波長差)の評価式では、光の波が、分光器入射スリットと回折格子の窓それぞれ(計算に用いた分光器のセットアップの概略は図1)で2段階に回折される効果などが、考慮されていませんでした。本研究では、これを考慮した、光の波の伝搬を追跡する数値計算を行いました。そして、入射スリットの有無やスリット幅、光学収差*4が、中間赤外イマージョンエシェル回折格子の波長分解能にどう影響するかを調査しました。

図2
図2 様々な波長λおよびスリットの有無、望遠鏡収差の条件において算出された波長分解能Rの値。

図2は、様々な波長およびスリットの有無、望遠鏡収差の条件において算出された波長分解能を示しています。図2の縦軸は波長分解能です。そして横軸は波長です。評価点として、様々な回折次数で、回折格子射出光が入射光のちょうど逆進光路(図1参照)になるような波長を選んで計算しています[図2(1)—(6)]。収差ありの場合に仮定した望遠鏡収差の量は波長20μmでシュトレール比*5が80%になる量としました。また、スリットありの場合に仮定したスリット幅は波長18.34μmの回折限界Point Spread Function*6の半値全幅*7に相当します。スリットなしの場合の(2)と(4)(6)から、スリットがない場合は収差がRに影響を与えることが分かります。一方、スリットありの場合の(1)と(3)(5)を見てみると、スリットがある場合は仮定した収差の存在がRにほとんど影響を与えないことが分かります。つまり、スリットがある場合には、波長分解能の観点からは、望遠鏡の鏡面形状精度への要求が緩和されることを意味します。

図3
図3 波長を17.03μmに固定し、スリット幅を横軸にとって変化させた場合の波長分解能R。

図3も同様の計算結果ですが、今度は、波長を17.03μmに固定しスリット幅を横軸にとって変化させた場合の波長分解能を示しています。図3から、仮定した収差に関わらず、あるスリット幅付近で波長分解能が極小になっていることが見て取れます。このときのスリット幅は、ほぼ回折限界Point Spread Functionのメインローブ*8の幅です。つまり、分光器に入射するPoint Spread Functionのメインローブだけを取り出して用いるようなスリット幅が、波長分解能の観点からは最も損をする設計である、ということです。これらのような、宇宙機搭載用イマージョンエシェル高分散分光観測装置に関する基礎的な知見の集積は、将来の高空間分解能中間赤外分光器やそれを含む宇宙望遠鏡の設計にインパクトを与えることが期待されます。

用語解説

  • *1 原始惑星系円盤 : 恒星が形成される際、その周囲にできるガスやダストの円盤のこと。この円盤に含まれるダストが何らかの方法で巨大な塊にまで集積することで、惑星が形成されると考えられている。
  • *2 スノーライン : 原始惑星系円盤内の、水が気体(ガス)から固体(ダスト)になる中心星からの位置のこと。
  • *3 回折格子 : 透過光や反射光の、波の振幅または位相を空間上で周期的に変調させ、波が強め合う方向と弱めあう方向を作る素子のこと。その方向の波長依存性を利用して、光を分光するために用いられる。例として、等間隔で開けられた多数のスリットは回折格子となる。隣り合うスリットからの波どうしの位相差が波長のm倍(mは整数)になる方向で波は強め合う。このときのmは回折(方向)の次数と呼ばれる。
  • *4 光学収差 : レンズや望遠鏡などの結像光学系の不完全性を定量化した指標のこと。結像位置に集光する光の波面が、どれだけ球面からずれているかによって定義される。この球面と波面のずれは、ある2次元関数の集まりの重ね合わせとして表現でき、その各々の関数が収差の分類(例: 球面収差、非点収差)に対応している。
  • *5 シュトレール比 : レンズや望遠鏡などの結像光学系の焦点中心での光の強さを、結像光学系に収差が全くないと仮定したときの光の強さで割ったもの。収差の大きさを表す。
  • *6 Point Spread Function : レンズや望遠鏡などの結像光学系が、物点の点光源を像点に集めるとき、像面にどのような強度分布を形成するかを表す関数のこと。たとえ幾何光学的に完全な点から点への結像が可能な光学系であっても、物点から発せられるのすべての光を像点に集められない限り、光波の回折によって、像面での強度分布は広がりを持つ。
  • *7 半値全幅 : 観測データや信号などを一変数関数グラフとして描画したときの、ピーク構造の広がりを表す尺度の一つ。ピーク値の半分の値を持つ2点間の変数軸上の間隔として定義される。
  • *8 メインローブ : ビームが回折によって複数のピークを持つ場合に、その中央の最も強度の大きい山型の領域を指す。

論文情報

雑誌名 Journal of Astronomical Telescopes, Instruments, and Systems
論文タイトル Simulations of the Spectral Resolving Power of a Compact Space-Borne Immersion-Echelle Spectrometer Using Mid-Infrared Wave Tracing
DOI https://doi.org/10.1117/1.JATIS.8.2.025004
発行日 2022年6月23日
著者 Satoshi Itoh, Daisuke Ishihara, Takehiko Wada, Takao Nakagawa, Shinki Oyabu, Hidehiro Kaneda, Yasuhiro Hirahara and the SMI consortium
ISAS or
JAXA所属者
ITOH Satoshi(宇宙科学研究所 宇宙物理学研究系), NAKAGAWA Takao(宇宙科学研究所 宇宙物理学研究系), ISHIHARA Daisuke(宇宙科学研究所 宇宙物理学研究系), WADA Takehiko(宇宙科学研究所 宇宙物理学研究系)

執筆者

伊藤 哲司(ITOH Satoshi)

伊藤 哲司(ITOH Satoshi)
大阪大学理学研究科 宇宙地球科学専攻 博士課程 卒業。博士(理学)。
大阪大学理学研究科 特任研究員、JAXA宇宙科学研究所 招聘職員を経て、現在、名古屋大学理学研究科 研究員。