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No.242 |
小田先生を偲ぶ
ISASニュース 2001.5 No.242
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秋葉 鐐二郎糸川先生についで,また日本の宇宙科学は大恩人を喪うこととなった。小田稔先生は,しかしながら,糸川先生が宇宙研を去られると殆ど入れ替わりに着任され,最初から激動の中で御苦労されることになった。 当時は人工衛星誕生前の苦難の時期であったが,先生はすだれコリメターによる宇宙X線の観測に意欲的で,たとえ衛星は打ち上がらなくても,大型観測ロケットというだけで十分役に立つと,われわれの苦境を弁護してくださったのは,半ば本音とも受け取れた。後に,K-10型でそれが現実となり,やがて,X線天文衛星のCORSA計画が進められるようになった。グループの意気込みが壮んであっただけに,その打上げ失敗の打撃は大きかった。われわれ工学研究者としても,開発にリスクは付きものとはいえ,なんともお気の毒で,落胆されているお姿を正視するに耐えなかった。苦節3年の後打ち上げられた「はくちょう」は,それまでの御苦労に十分応える成果を次々にあげて,宇宙研の名は世界に知れるようになった。 宇宙科学研究所はまた,宇宙航空研究所からの改組転換に際しての,先生のご業績とお人柄に負うご尽力も忘れてはなるまい。初代宇宙科学研究所長,森大吉郎先生の任期半ばでのご逝去の後,第2代所長となられてからは極めてご多忙な日々とお見受けしたが,実に多方面のご活躍をされた。先生の任期中最大の科学衛星計画はハレー彗星探査であった。先生は持論として衛星計画のような多額の経費を使う計画は学術として,一流の成果をもたらすものでなければならないと主張されていた。
法王ヨハネ・パウロ2世とのご対面(1986年11月) 惑星探査については必ずしもこのような信念を持たれていたとは思えなかったが,ハレー彗星探査の国際協力においては米ソ欧の足並みを揃える上で要の役割を果たされたとはご自身の述懐でもあり,もっぱらの評判でもある。これも,先生のお人柄に依るところとお察しする。実際,所の外部委員をお招きする会議の後では,お人柄を慕い,沢山の参会者方が集まって,所長室で2次会を楽しまれるのが常であった。そして,その「さきがけ」が予想以上の精度で惑星間に投入されたとき,実験主任であった私がうっかり120%の成功と口走ったのを,科学者らしからぬと非難した人もいる中,科学者といえども人間と理解を示してくださったのも先生であった。
バチカン宮殿にて(1986年11月) そのような順調な発展を遂げた時代ではあったが,先生は所長として将来計画を議論する場を設けられ,やがて任期を終えられる頃には,M-V計画着手への糸口をつけてくださったのである。 個人的には,随所での偶然の出会いの折り交した短いお話しが,懐かしく思い出される。月日は戻らない。 (宇宙科学研究所名誉教授,元所長) |
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