No.242
2001.5

インドでの思い出  
ISASニュース 2001.5 No.242  

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瓜 本 信 二 


 1966年3月末,小田先生と私はインドはボンベイの空港に降り立った。

 日印共同ロケット観測に参加する為,X線観測装置,地磁気姿勢計,テレメータ装置を持ち込んでインド側が用意したナイキアパッチ改修型ロケットに組み込んで実験を行う為の出張である。

 税関を出る前に先生が「これを忘れたら大変です。」と,立ち寄られた所が「酒類購入許可書発行所」。さすが旅なれた方と感心する。ホテルに着いて先生がまずカバンから衣類を出し備え付けのタンスに入れて並べられたのには,またまた感心する。私なんかは何日泊まろうと面倒くさいのでカバンの中に入れっぱなしだからだ。また鼻歌がベートーベンの交響曲ときた,演歌か歌謡曲の自分とは大違い。やはり外国生活の長い方は違うものだと初日から大いに感心した。

 ホテルで昼食のメニューを見ながら,先生が「昼飯を食べる時に晩酌の事を考えながら料理を選ぶようになるとこれは,アル中ですね」と言われた。その割には夜のお酒は沢山は召し上がらなかった。チビチビやりながらしゃべるのが,お好きな様であった。

 ボンベイからアーメダバードのPhysical Research Laboへ移動。そこでインド側の責任者ラオ氏他,数人の方々とスケジュール打ち合わせ,基本計器の噛み合わせなどを行い,いよいよ戦闘開始と成る。インドの人は総じてうるさい。何をやるにも喧喧諤諤の議論から始まる。

 何でそんなことをするのか,誰がやるのか,こうしたらどうか等々。小田先生は相手が幾らまくし立てようとゆったりと穏やかにお話される。小田先生とはテンポが合わないと見るとこちらにお鉢が回ってくる。それと何かあると直ぐに相手を攻める。

 インテグレーション試験の朝,電源をオンにしたら計器が働かない,直ぐ「装置が壊れている」ときた。調べてみると前夜,充電器を逆さにつないだ為,電池が充電されていなかった事が判明。それから暫くは静かだった。

 或る夜に小田先生の学友だったサラバイ氏(原子力省の高官)から招待を受けお伴をさせて頂いた。食事の後,照明を暗くした部屋で音楽を聴きながら(ロドリゴのギター協奏曲・リストのピアノ協奏曲など)ゆったりと二人で話されている姿は幻想的であった。こういうもてなし方も有ると感心した。これで酒でも有れば小田先生には最高だったのではと感じたものだった。

 10日ほど遅れて,松岡,小川原(当時小田研)の両氏と古賀氏(明星)が現地入りされX線観測装置の最終調整がはじまった。或る程度試験の終わった時点で舞台はケララ州に有る,赤道直下のツンバ基地に移る。ここでの試験は昔,秋田実験場で行った作業のようにトラブル続出でなかなか予定通り進まず,いらいらするが,小田先生は悠揚迫らず,組立て後の衝撃試験や開頭試験をするよう指示され,装置の作成案まで提示された。インドの人達はこれに応えて休日返上で,短時間でこれらの装置を作り上げた。議論だけで実行力が無いと思っていた人達の働きぶりには改めて敬意を表し。認識を新たにしたものだった。

 これらの努力にも拘わらず打ち上げ実験は二機とも失敗に終わった。一年に及ぶ努力が水泡に帰した無力感で皆,言葉少なだった。

 小田先生は我々を思いやってか,一言も愚痴をこぼされなかった。

 この旅行を通して先生は,私に人生かく有るべしと生き方の基本を教えてくださった。

 その後,先生はお忙しくてお教えを頂く機会が少なかったのが心残りである。先生のご冥福をお祈りします。

(元明星電気) 


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1966年6月17日から20日まで
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