No.242
2001.5

世界の偉大な科学者 小田先生  
ISASニュース 2001.5 No.242  

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田 中 靖 郎 



「すだれ」の誕生(MITにて,1965年)

 小田先生は私にとって大先輩であると共に,50年の長きにわたってかけがえない師であった。先生と同じ分野を歩んだ私にとって思い出は尽きない。

 初めてお目にかかったのは大阪大学3年生の時である。当時,小田先生はMITに渡米される直前だったが,終戦後日も浅い惨めな実験室にふと現われた先生の颯爽たる姿はまさに掃き溜めに鶴が舞い下りた感じであった。3年後,先生は宇宙線空気シャワー観測計画を携えて帰国され,創設されたばかりの東京大学原子核研究所(わが国初の共同利用研)で実現されることになった。先生と一緒に研究する幸運に恵まれたのはその時からである。全員が30代以下の若さで,よく仕事もしたが,小田先生の先導でよく遊んだことの方を妙に思い出す。

 1962年X線星の発見は先生の後半生の研究を決定した。翌年先生はRossiの招きで再度MITに渡米され,そこでかの有名な“すだれ”コリメーターを発明される。先生はこれを実に巧妙に使ってX線星「さそり座X-1」の位置を精密に決定し,その成果が“異常に青い星”の同定(寿岳,Sandage等)という X線天文史上画期的な快挙を生むことになる。“すだれ”コリメーターは更に発展し,牧島さん達の手になる“究極のすだれ”コリメーターが「ようこう」で太陽硬X線撮像に威力を発揮した。“すだれ”に限らず先生の独創的なアイディアは数知れない。

 1964年創設された東京大学宇宙航空研究所に招かれた先生は,MITに留まるか否か深刻に悩まれた末帰国を決断される。その後暫く,X線天文では宇航研の小田グループと名古屋大学の早川グループの二つだけで,院生を入れても総勢10人余,今とは隔世の感がある。私もやがて名大から宇航研に移り,再び小田先生の間近で研究することになった。1976年,初のX線衛星CORSAの打ち上げは残念にも失敗。普段決して弱音をはかぬ小田先生が「日本のX線天文はこれで10年遅れた」と唇を震わせて嘆かれたあの夜のことは忘れられない。しかし僅か3年後,先生の獅子奮迅の働きと関係者の強力な支援で認められた再建衛星は打ち上げ成功。先生の執念の星Cygnus X-1に因んだ「はくちょう」が誕生した。超小型衛星ながら“すだれ”コリメーターを載せた「はくちょう」はX線バースト源を次々に見つける等々,中性子星の研究に大いに活躍した。これを弾みに日本の X線天文学は目覚しく発展し世界をリードするに至るが,あの時の先生の御奮闘にあらためて感謝の念が湧く。

 先生は生まれながらのコスモポリタンで,国際協力の推進者であった。先生の天賦の指導力は日本の宇宙科学の代表としてのみならず国際的にも頼りにされた。又,わが国宇宙科学の優秀性を世界に主張して日本の地位を確立された。特に,中小型衛星を年1機のペースで打ち上げ,科学・技術の継続的発展を計るわが国の方針を誇られた。先生の友人 Freeman Dyson の “Quick is beautiful”や Frank McDonald の “Frequent is essential”の名句はNASAの巨大計画偏重を批判し,日本に学べという主旨のもので,先生との対話に感銘を受けたからに違いない。

 先生が宇宙科学研究所の所長に在任中の4年間はわが国宇宙科学の転換期であった。長期計画策定,M-V計画の承認等,重要課題を成し遂げた後,ASTRO-D(「あすか」)の予算獲得を置き土産に先生は宇宙研を退官された。幸い「あすか」の活躍はX線天文学の一時期を画したとの評価を得,先生に大変喜んで頂いたことが,せめてもの御恩返しになったろうかと考える他はない。その「あすか」は奇しくも先生の御臨終直後に大気に突入,その生涯を終えた。偶然とはいえ如何にも印象的な coincidnece を生涯忘れることはできまい。


法王様の椿(小田稔先生画)

 先生は学問ばかりでなく,豊富な趣味をお持ちだった。酒(趣味)を,スケッチを,音楽を,山をこよなく愛された。どれも素人離れで,スケッチでは個展を開かれたし,モーツァルト協会会員,日本山岳会会員であった。ユングフラウ三山のメンヒに登頂した時のガイドと何十年ぶりに再会したこと,グリンデルヴァルトの名誉村民に選ばれたことをとても喜んでおられた。先生の柔和な笑顔とユーモア溢れる酒脱な語り口は人を魅了せずにおかなかった。悲しくも,今はただ先生のお人柄と御業績を偲び,御冥福をお祈りするばかりである。

(宇宙科学研究所名誉教授,Max Planck Institute) 


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A Salute to Minoru Oda
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