寿 岳 潤
66年6月17日に,小田さんは初めて岡山天体物理観測所(現国立天文台)に来られた。同じ年の3月8日,エアロビーに搭載された「すだれコリメーター」でさそり座X-1の角サイズ(20秒角以下)と天球上の位置(精度1分角)が決定される観測が行われた。その後,高倉達雄さんの紹介で小田さんが三鷹の東京天文台(国立天文台の前身)に来られ,岡山でこの天体の光学同定観測を行う手筈が決められた。X線スペクトルの光学領域への理論的外挿に基づき,二重露出法(青と紫外線のフィルターをかけた写真を少しずらして二重写しとし,多くの星の中から紫外線の強い星を探す)を用いる。私は6月10日から岡山の石田五郎,清水実,市村喜八郎といった方々と梅雨の間をぬって観測を始めた。この時点ではまだX線源の位置決定は完了しておらず,広い範囲(数平方度)の探査がおこなわれた。
山陽本線の鴨方駅に小田さんを出迎え,観測所にむかう約半時間の車中で私はそれまでの観測経過を話した。小田さんは,観測が成功した場合の論文著者とその順序について詳しく説明された。私には当然の事と思われたが,後に「筆頭著者(Sandage)」や「レイプされた物理」問題が出現して,日本の物理学ショービニズムにあきれた。発表された論文(ApJ 146 316 1966)はSandageの高い見識に満ちており,その後のX線星連星説の研究方向をガイドする古典となった。
6月17日夜は4日ぶりに晴れ,乾板番号NL-423が21時40分から(青5分,紫外30分)2 2時23分までかけて撮影された。その後急速に曇りだしたので,その間に現像したところ,乾板のほぼ中央に紫外超過の星が一つみつかった。夜半すぎに晴れ間が現れたので,大沢清輝さんが素早くこの星の三色測光を36インチ望遠鏡で行い,V=12.6,U-B=-0.8,B-V=+0.3という予想どおりの値を得られた。翌18日は薄曇りの中,カセグレン分光器で石田さんがスペクトル(3時間露出:乾板番号Q3-196)をとった。露出不足ではあったが,顕著な吸収線はなくバルマー線γだけが輝線として認められた。これらの結果は,石田さんが玉島電報局まででかけてアメリカ側に通報された。7月にはパロマー天文台の200インチ星雲分光器と20インチ光電測光器による同時観測が行われた。この分光器はSchmidtがクエーサー3C273の歴史的な赤方偏移を検出した切れの良い名器で小田さんも私も,後にパロマーのスペクトル(PASJ 18 469 1966)がみすぼらしいのにがっかりしたのを憶えている。
20日に小田さんは下山して大阪に向かわれた。天文台の印象を尋ねると,74インチ鏡に最新の光電分光測光器がないことに印象づけられたとのことであった。しかし岡山が当時特に遅れていたわけではない。このようにして,小田さんの3泊4日の最初の光学観測は,満足感と共に終わった。
(国立天文台名誉教授)