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No.242 |
小田稔先生の想い出
ISASニュース 2001.5 No.242
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戸 田 康 明3月初旬朝刊を見て小田先生のご逝去を知る。まだお若いしお元気だった先生のことしか記憶にない私は本当に驚いた。告別式の当日足が弱った私は四ッ谷の式場に早く到着。まだ準備中の中に入れていただき白花につゝまれた先生の御写眞何とも親しみあるお顔をじっとながめつゝ想い出にふけった。 先生と初めてお会いしたのはいつだったろうか。どうもはっきりしないが,糸川先生と遇した秋田のロケット打ち上げの時はすぎ,内之浦でロケット発射実験が始まったあと数年後だったのだろう。 1970年2月11日初の人工衛星打上げ成功の折はどうやら小田先生はすでに実験隊員の一員として本部でNASAとの連絡係をつとめておられたと聞く。以降ロケットはミュー時代をむかえ相次ぐ発射実験は成功きわめて順調にすすんでいた。 1966年私が日産の宇宙航空事業部長となってからは,板橋次長以下多数の人材が育ったので私が内之浦にゆくのも大型ロケットの打上げの時だけで,日程も限られたが,成功すればお祝。失敗すれば残念会,さらに内之浦へゆくのを楽しみにしておられた永田先生が来られる折は,お若い玉木,森先生ではアルコールのお相手が出来ぬとて,私に特に来てくれよとご依頼をうけた。どうやら実験主任方他と焼酎一杯お付合が主な仕事のようであった。小田先生も平尾先生と共に内之浦では福之家旅館が宿会のようだったから入口横のバーロケットで焼酎一杯からお付合が始まったと思う。 だが1976年小田先生担当のX線星衛星CORSA失敗の折,偶々計測室での小田先生の落膽の姿はわすれられない。だが3年後の御苦労の結果,はくちょうの成功のおよろこびの姿は印象に残る。 一方,東京でも何か会合で時折お目にかかる機会があった。会議が終わるとよく平尾先生も一緒に2次会とてポルカとかいうビアホールでまず一杯と始まる。先生は楽士に歌をリクエスト。私も酔いつゝ歌をうたった。帰路は先生のお宅は武蔵境,私の家は小金井とて車で同行深夜小田先生のお宅にお邪魔した。奥様又お子さん方もおきておられ,私は遠慮なくウイスキーをいただいた。先生の写真集。
谷川岳のとりかぶと(小田稔先生画) 以上日本の最高学者であった先生を何か飲み友達のように書いて想い出の記として申訳ない。ただ先生が今少しでも生存され,公職をはなれ,奥様とおふたりで,花作り又画をかいて老後をお遇しになればと思う。 今はただ先生の御冥福を祈るばかりです。 (日産自動車顧問) |
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