No.300e
2006.3 号外

ISASニュース 2006.3 号外 No.300e 


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定年退職雑感 

宇宙プラズマ研究系 小 山 孝 一 郎  


 1965年に東京大学宇宙航空研究所に入所、宇宙科学研究所、そして宇宙航空研究開発機構と組織の変遷の中、41年お世話になったことになる。K-9M-28号機に初めて測定器を搭載してから81号機で終わるまでの多くの観測ロケット、インドにおける3回の共同実験、米国とのテザーロケット実験、そのほか、カナダ、ブラジル、ドイツなどの観測ロケット実験に加え、「しんせい」「たいよう」「きょっこう」「ひのとり」「おおぞら」の5個の地球周回衛星計画。一つ一つの実験に思い出があるが、ここでは「さきがけ」計画と中層大気国際計画ダイアナの思い出をたどりたいと思う。

 1979年に2年間の米国滞在から帰ってきて、PLANET−A計画が始まった。「さきがけ」は打ち上げられてから付けられた名前である。米国の最初の惑星空間探査機IMP1と同じ構成で、惑星空間磁場、波動、太陽風の三つの観測機器を搭載したわずか138kgの探査機である。私は太陽風の速度、温度、方向を測定する太陽風観測器を担当した。本年定年退職される橋本さんが工学側の現場の世話人で、私は理学側からのお手伝いをした。

 一次の噛合せ場所はまだ駒場で、ぼろぼろの天井から「さきがけ」を守るため、「さきがけ」の上にビニールシートを吊り下げて試験を続けた。二次試験は、最初に相模原に建設された試験棟で始められた。相模原のクリーンルームはまだ出来上がったばかりでコンクリートが完全に乾いておらず、湿度を下げるために室温を下げて衛星試験が続けられた。振動試験台のコンクリートの乾き具合を見ながらスケジュールを組んだのを覚えている。強冷房のため、その後2年ぐらい体調不良が続いた。

 当時の宇宙研は極端な緊縮財政で、トイレ掃除を会社に委託するお金も倹約していた。主計課長以下、管理部の皆さんと床、トイレ掃除を手伝ったのも今から想うと懐かしい。守衛さんたちも一緒になって掃除した。忘年会も一緒にした。当時は皆、燃えていた。「さきがけ」は軌道に投入されてから10年まったく正常であったが、観測側責任者の平尾先生の送ったコマンドにより送信を停止した。

 「さきがけ」計画が一段落した1987年、西ドイツ・ウッパタール大学のOffermann教授から伊藤教授に宛てられた一通の書簡が私に手渡された。内容は、世界的な中層大気観測のため、内之浦から高層気象観測用のバイパーとスーパーロッキの2種のロケットを発射してくれとの依頼である。しかし予期したというべきか、直径11.5cmの小型ロケットとはいえ、27機という多量のロケットの実験はそれまで例がなく、種子島周辺漁業対策協議会との交渉は困難を極めた。的川さんと当時の橋川研究協力課長が前線で交渉に当たり、計画の日本側世話人という立場から私も交渉に立ち会った。この交渉の過程で、漁業関係者との信頼感が醸成されていったと思う。

 多くの人の助けにより、困難な交渉も1988年6月には24機を発射することで何とかめどが付いた。交渉妥結までの裏話は、とてもこの誌面では書き切れない。私を助けてくださった当時の多くの漁業関係者の好意を思うと、胸が熱くなる。このとき以来、情熱と誠をもって事に当たれば、必ずや理解し助けてくれる人がいることを強く信じるようになった。

 宇宙研生協理事長時代の倉庫建設、旧宇宙開発事業団の古濱理事が実行委員長を務められたアジア太平洋域電波科学国際会議での寄付金集めなど、以後の私の行動は、このときの経験に基づいている。

 実験が始まっても、落下球の捕捉がうまくいかなかった。最後には秋葉先生の一言で、レーダのすぐ前にランチャーを置いてようやく捕捉に成功した。ダイアナは苦労したキャンペーンではあったが、13編の査読論文が出され、一人の学生の学位論文の一部となった。このような成果が出たのは、当時京都大学におられた山中氏が研究者グループをまとめてくれたおかげである。

 「さきがけ」では体力を消耗し、ダイアナ計画ではかなり精神的に消耗した。懸案であった金星探査計画を立ち上げる気力がわいてきたのはダイアナ計画より約10年を経た1998年になってからである。

 「この情け 生きながらえて いつの日か 返さんものと 心に誓う」。昨年暮れに89年の生涯を閉じた母の日誌を整理しているときに見つけた歌である。つたない歌ではあるが、今の私の心情でもある。多くの方々に助けられ、楽しい研究生活を送れた。残された命を子供たちの教育に捧げることにより、これまで受けた情けの万分の一でも返したいと、心新たにする今日このごろである。

(おやま・こういちろう)


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