No.200
1997.11

EXPRESS   ISASニュース 1997.11 No.200

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EXPRESS/1995.1.15/M-3SII-8



 EXPRESS計画は80年代の終わりに外部からのMクラスのロケットを使ってマイクロGなどの宇宙実験をしたいとの要請に端を発した。曲折の後日独の協力の下に日本側は通産・文部省が主体となってM-3SIIを使って宇宙での新材料創製と再突入技術習得を目的としたカプセルの飛行実験を行う方向で大筋の合意が得られたのが1990年。この間所内では科学探査用ロケットの外部の利用の是非や独自計画に与える影響などについて議論がされ,軌道からの再突入機会を得ることは貴重であり,惑星探査の将来ミッションを実行する上でのフリーハンドを広げることが参加の意義のひとつとなった。

 計画は90年10月ドイツでのキックオフから始められ,カプセルや搭載実験の検討が進められたが途中から「どうもドイツの調子が変だ」と感じられるようになった。ベルリンの壁が開いたのは89年秋で計画開始の前だったが,その後国境の開放から東西の統一が実現するに及び経済状況の変化が計画の進行を困難とした。予算の縮小でこれを切り抜けるべく努力を重ねたが,ドイツ統一の結果として必要となった対ロシア支援とこの計画をリンクさせることで打開を図った。この結果新しい体制としてドイツ側はロシアからカプセルを調達し搭載実験や西側機器をインテグレートすることとし,92年秋には計画は再開された。この間日本側では計画の遅れにいらだたされる場面も多かったが,通産・文部間の予算執行上の問題から製造日程の変更など関係者の努力でこの計画変更に対応した。

 最終的に打上げは95年1月となり,次のM-Vとの関係でこれがぎりぎりの線で,これ以上の遅延は許されない状態での打上げとなった。日独露の混成チームによる準備によって,ウィンドウ初日の打上げを迎えたが,2段目の不具合により軌道突入後3周目で機体を失った。ロケットの不具合調査や日独関係機関との後始末も一段落して正にほとぼりも冷めた95年11月末,ガーナでカプセル発見の報が突然舞い込んだ。現地での確認作業の後96年3月にカプセルはドイツに回収,飛行後の状態をよく保存していることが明らかになるに従い,飛行後調査を開始。機体や搭載実験は再突入時のデータ取得は行われなかったものの,再突入飛行に関わる耐熱特性など飛行後回収して初めて分かることも多く,ゼロであった実験の成果は一気に増えた。

 それまで全機成功のII型の最終号機を成功で飾れなかったことは打撃だったが,その教訓はM-Vに十分に生かされた。再突入技術についてはMUSES-Cなどの新しい展開の基となった。冷戦終結の荒波にもまれ,国際協力を進める上での様々な教訓と多くの経験を残しEXPRESSミッションは終了した。

(稲谷芳文)






EXPRESSのひとこま

 「おい,もう一回ドイツ行って来い」「えっ,まだ船便の荷物届いてないんですけど」90年9月,1年間のシュツットガルトでの在外研究から帰って1ヵ月後,三陸で有翼再実験の気球の準備中のこと。EXPRESSに宇宙研がどういう関わり方をするか盛んに議論していた時期でした。とりあえず複数の実験者やDARA,メーカー等を含むドイツ側の様子や体制がどうなっているか,暫く行って実際に調べてこい,というのです。「要するに密偵ですか」「まあそういうところだ」と所長の西村先生。ようやく帰ってからの引越しや子どもの保育園やらの段取りが落ちついたばかりでしたが,「また行く」というと「みんなで行く」。彼らにはドイツのクリスマスやまた友達に会えることなどしか頭にありません。ともあれ私にとってそれからガーナでの発見回収,飛行後調査に終わる長い道のりの一番初めでありました。

(稲谷芳文)


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