No.221
1999.8

ISASニュース 1999.8 No.221 


- Home page
- No.221 目次
- 特集号によせて
- 「はるか」がなし遂げたこと
- 「はるか」
- 萩野慎二
- 大型パラボラアンテナの展開まで
- 井上登志夫
- 「はるか」の姿勢制御
- 軌道を決める
- VLBIのための観測システム
- 紀伊恒男
- 干渉計/VLBI/VSOP
- VSOPミッションとその成果
- 『活動銀河核』とは
- ジェット
- 波長と周波数
- シンクロトロン放射
- 宇宙で最も「明るい」銀河
- BL Lac天体の偏波観測
- 活動銀河核3C 84のジェットと電波ローブ
- VSOPサーベイ観測
- 「はるか」による22GHz観測の成功
- メーザー
- 臼田Kuリンク局
- 三鷹相関局
- 地上電波望遠鏡
- 通信総合研究所,鹿島34mアンテナ
- 米国国立電波天文台
- NASAジェット推進研究所
- VSOP,夢がかなった!
- VLBI,思い出すままに
+ はるか物語
- 呑み屋での話?
- 編集後記

- BackNumber

はるか物語

 ここでは,日本の電波天文学が育ってきた土壌の古い話をしようと思います。太平洋戦争の末期,日本の海軍は静岡県大井川に面する島田の町に,マグネトロンの大きな研究所を造っていました。東北大学の渡邊寧先生と海軍技術陣のホープだった伊藤庸二技術大佐が中心人物だったと思います。面白いことにはアメリカのMITの,取り壊し中ですが今でも残っている古くMITに滞在された方々には懐かしい,ビルディング20も戦争中アメリカの物理屋他各分野の研究者を集めたマイクロ波の研究の中心になっていたのです。

 さて,この島田の研究室に阪大の菊池正士先生が集められた先生方のなかに朝永振一郎,小谷正雄,萩原雄祐先生方がおられました。この三人の先生方は最もそれぞれの先生らしいマグネトロン発振の理論を展開しておられました。私も阪大の学部の菊池研究室の渡瀬先生の学生として参加したものでした。大学の研究室ではもう研究どころではなくなっていましたが,島田には研究所らしい雰囲気がみなぎっていました。

 戦争が終わって,もともと私は原子核物理の学生でしたが,占領軍に原子核の研究は禁止されていました。渡瀬先生は今後の研究の方針として,宇宙線と電波の研究の二つの柱をたてられました。私は電波をやることになり,辛うじて残っていた,というよりも隠し持っていた海軍のマグネトロンを使って雑音の研究を始めたものです。マグネトロンの雑音は,本当の白色雑音ではなくて,真空度が少し悪いと起きてくる雑音と発振の中間のような不思議なものです。戦争中から戦後にかけて太陽からマイクロ波の電波がくることが知られていましたが,それがこのマグネトロンの雑音に似ているという感じがありました。そのころただひとつアメリカでの研究を知る手段がありました。それは戦前,東京日比谷にあった日東紅茶の喫茶室が,占領軍の図書室になって公開されていたのです。勿論,コピー機などありませんから雑誌を読んで頭にたたきこんで帰ってくるのです。

 こうして阪大でも太陽電波の研究をしようということになりました。丁度そのころ,三鷹の天文台でまだ若かった畑中先生が,多分,萩原先生のサポートで太陽電波の観測を始められました。大阪から,はるばるまだ草深かった三鷹に出かけていって,大阪にマイクロ波の電波天文台を作る相談をしたことを思い出します。その時の古い写真をみると畑中先生を中心に多分大学院だった海野さん,オーストラリアにいかれた鈴木さん,守山さんそして私が写っています。そんなところが当時の日本の電波天文学者(?)の総勢だったのでしょう。もっとも,当時東大の霜田光一さんが陸軍の古い聴音機の木製のパラボラに銅板を貼り付けて部分日食のときの太陽電波を観測しています。これが当時唯一の意味のある観測だったのかもしれません。

 さて,大阪中之島の阪大理学部の屋上に高倉さんと廃兵器をかき集めてきて造った粗末な電波天文台を使って高倉さん,小塩さん,金子さんたちと色々な夢をふくらませました。その一つは私たちが“5行5列”と表現した多数のアンテナによる電波干渉計です。これは私市(きさいち)にある大阪市大の植物園に設置しようと設計までしましたが当時のお金で100万円が捻出できずあきらめたものです。干渉計は後に田中春夫さんが名大の空電研で見事に実現され,さらにのちに野辺山でも実現されました。もっとも,この“5行5列”は後に田中さんが書かれた本によると,コリレーターの考えが甘いのでやってもうまくいかなかっただろうということでした。

 さて,電波干渉計の考えは野辺山では石黒さんが実現することになりますが,後に地球規模のVLBIにまで発展して,関係者のだれもがすぐ考える事としてアンテナの一つを軌道にのせたスペースVLBIが出来ないかということがあります。1983年に,宇宙研に天文台の電波天文学者達,野村民也さん以下宇宙研の工学の面々,電波屋さん達が集まりました。私が“スペースVLBIという考えは荒唐無稽なのかどうか,議論して見よう,これが笑い話に終わるようだったら,この会合は一回だけにしよう”といったことを覚えています。ところが,笑い話ではなく“1〜2m直径のパラボラでもよいから,軌道上に上げられたら,電波天文屋としては面白いと思う”という話になって,この会合は何度も続けられることになりました。ツールーズ,ワシントンDCでのCOSPARの会合でもこの話が取り上げられました。こうしているうちに,本格的に計画を進めているのは日本だけになってしまって,それに外国の仲間が乗っかってくるということになりました。面白いことには先ず名前が先行します。この計画には,お酒が好きなことで国際的に有名な森本さんに因んでVSOPという名がつけられました。アメリカのNRAOの窓口として,MITのバーニー・バーク他の人々,そしてJPLの人々が,日本では宇宙研の工学の人々が本気になりました。天文台からこのために宇宙研に移ってきた平林さん(外国ではHiraxという愛称でよばれる)を中心に計画が進められました。

 アメリカに通信の中継をするTDRSという人工衛星があって,大きなパラボラが静止軌道上にあります。このパラボラと宇宙研がハレー彗星の探査機を追跡するために臼田の山中に用意した直径64mのパラボラとを使って,本当にスペース規模のVLBIができるものかという予備実験もJPL,宇宙研,天文台の間で行われ成功しました。

 「はるか」では,アンテナとしてご婦人のストッキングのように細かい金属のメッシュに金メッキしたものが使われて,直径8〜10mのパラボラが造られました。勿論そのまま宇宙研のロケットで飛ばすわけにはいきませんから,そこは宇宙研の工学の三浦さん達の出番でパラボラを折紙のように小さく畳んで,飛ばしてから軌道上で広げる事になりました。

 こうして迎えた1997年2月12日,外国から沢山のお客さんもまじえて皆が見守るなかで,はじめてのスペースVLBI衛星「はるか」が誕生したのです。島田の頃から数えると,50年を越える月日が経っていました。ロケットの白煙をみながら,涙が出る想いでした。

(小田 稔)




#
目次
#
呑み屋での話?
#
編集後記
#
Home page

ISASニュース No.221 (無断転載不可)